エノカマの旅の途中

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カテゴリ:庄内藩( 66 )

天領の大山は寛永二年(1749)以降、庄内藩の預地となっていた。
元来、天領の代官は世襲ではなく優れた能吏(不適格と判断されれば更迭される)が着任し組織も簡素で少ない人数のこともあり、鉱山・港湾からの安定収入が見込まれた地も多く、諸藩よりも租税が安くなる上に善政を敷かれることとなり、庄内の天領で直轄地から預地に変更される際には反対運動が常々起こるほどであった。
大山は水野忠邦が老中であった天保年間に「三方領地替え」の取りやめの報復もあってか、庄内藩の預地継続の願いを受け入れず、天保十三年(1842)尾花沢の大貫代官の直轄地となった。
ここでも一定の冥加金はあったものの、庄内藩が課していた細かい役銭が廃止され、大山の主力産業の酒造業者や職人に至るまで大きな恩恵を受けた。
しかし二年後にいわゆる「天保の改革」一連の改革が失敗し水野が失脚すると、再び大山は庄内藩の預地に戻されることになった。
この動きに対して酒造業者や名主層が主導し住民運動を起こし江戸訴願を行うほどの動きとなったが、結局は力ずくで鎮圧されることとなり3000人にも及ぶ取り調べが行われ、主導者5名はいずれも牢死し3500名が処分される(「大山騒動」)と言う重いものとなった。
この動きに対し藩内では大山製品の不買運動も起きたと言い、元来から預地領民と藩領民の係争では預地領民が不利な裁定を受けることも多く、幕府に納めるべき上納を大きく上回る租税を預地領民は藩に納めていたと言う不合理も、この運動が過激になった遠因となったと言う。

元治元年には新徴組での江戸警衛の功あって、大山は完全に天領から庄内藩領となった。
しかし大山の酒造業者はたくましく、慶応年間には蝦夷地から江戸、加賀、長崎と販路を広げ
水の良さもあって現在も酒処として、統合や廃業もあったが酒蔵が目立つ街並みとなっている。
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桑名藩士の謹慎>>
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by enokama | 2018-11-01 19:09 | 庄内藩 | Comments(0)
こちらにも書きましたが、桑名藩は本国では恭順と決したが
藩主の松平定敬は飛び地の柏崎領へ行き、徹底抗戦派の藩士と共に会津に赴いた。
しかし会津戦争では新政府軍の猛攻に対し、鶴ヶ城籠城戦と決した容保から定敬は米沢を目指して再起を図れと会津を離れたのが八月二十三日。
その報を聞いた桑名兵らも藩主の後を追うが、すでに定敬は仙台に向かったと告げられた上で(榎本艦隊に加わり蝦夷地箱館へ向かう)早い時期に降伏へと傾く米沢藩への入国も拒否された。

多くの東北諸藩も劣勢であり恭順との流れが強くなっていく中で、庄内藩は豊富な資金力を生かした充実した武器を用いた戦力と士気が高く戦術に優れた兵は各戦線でまだまだ新政府に伍して戦っていて、新徴組の江戸での功で庄内藩は幕府から与えられた最上川流域の元天領だった寒河江・柴橋を依然として確保していた情勢であった。
そこで桑名兵は庄内兵と合流することとし福島から白石を経て笹谷峠経由で山形へと入ったのが九月十六日。
この合流に関しては「奥羽列藩コトゴトク西軍二降ル。独リ荘内ノミ屹然不屈、我(桑名兵)二国(庄内)二就キ力ヲ合センコトヲ請フ。我マタ荘内ノ為スアルベキヲ知ル」
として最後に戦う地として庄内へと向かうのだった。
そして寒河江に庄桑400の兵が滞在していた九月二十日の早朝の濃霧の中、米沢藩を先導として薩摩兵2500に急襲される。
いわゆる「長岡山の戦い」で桑名兵19名、薩摩兵10名の死者を出した。

そして約300名とされる桑名兵と他の戦線同様に藩への帰還を命じられた庄内兵は庄内本国へと向かい、九月二十五日に鶴ヶ岡城下に入る。
しかしすでに二十三日に庄内藩は降伏しており、桑名兵は謹慎の地大山へと移された。


謹慎をした大山>>
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by enokama | 2018-10-30 20:33 | 庄内藩 | Comments(0)
慶応四年八月十九日。
徳川宗家の駿府藩七十石への移封と慶喜の謹慎していた水戸からの移動を見届けた後
旧幕府海軍を率いる榎本武揚は江戸近海を脱出し、その艦隊は東北へと向かった。
戊辰戦争で新政府軍との戦いを続ける奥羽越諸藩との連携と、旧幕臣の新天地としての蝦夷地の可能性を求めてのものである。

しかし折しも台風シーズンであって艦隊のうち、暴風雨にあって流された「咸臨」は駿河の清水で拿捕され「美賀保」も銚子沖で座礁した。
残った艦船も損傷を受けながら松島湾の各所に着船し、榎本らは降伏に傾く仙台藩との協議を経て一定の支援(仙台藩にあった艦船二隻の合流や兵糧の提供等)と士気ある兵の収容を得て蝦夷地に向かうこととなるが、そのうちの二隻「長崎二番」(長崎丸二番)「千代田形」は庄内へと向かっていた。
まだ抗戦を続けていた庄内戦線での海上からの支援と洋式歩兵戦術の専門家で庄内藩での指導に入っていた沼間守一の救出が目的である。

(以下は坂本守正「七星旗の征くころ」 元の引用は阿部正己「庄内藩軍艦」より)
慶応四年になって幕府が瓦解した後に旧幕府海軍の艦船は東北諸藩に貸与等の形で運用される動きがあって、仙台や北越の戦線でも輸送船として使われることもあった。
庄内藩は三月(庄内着)の江戸在住の新徴組隊士も含めた藩士の総引き上げのさいに「奇捷」を手に入れていた。
藩では本格的な海軍創設を決め、人事も行われて運用を始めていたが、七月の新潟寺泊沖での海戦で新政府軍の艦隊の襲来で旧幕府勢力の艦船が沈没させられる事態が起き、この海域での制海権を握られることとなり、庄内藩単独で一隻所有するだけでは効果的ではないとの判断で
主な旧幕府勢力と取引きして知られた武器商人スネルから融資を受けて差し迫った必要のあった洋銃弾薬の購入を優先し、その担保として「奇捷」を担保に出すこととなり手放しており、庄内藩自前の海軍力はなかったのである。

奇捷(きしょう 鉄製蒸気内輪)
 1864イギリス(グラスゴー)・タバンニョ―号(査収・慶応二年八月)横浜 十万元 150馬力 517屯
  慶応三年に庄内藩が譲り受け

その二隻の酒田港への到着は十月七日となったが、終始藩外へ展開した戦いが中心で一時期は新政府軍を圧する勢いだった庄内兵だったが、周辺諸藩の相次ぐ降伏もあって藩内防備へと撤退し、すでに九月二十三日に参謀・黒田清隆に降伏嘆願書を提出して、降伏したあとであった。


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by enokama | 2018-10-26 22:34 | 庄内藩 | Comments(0)
(鶴岡公園周辺に関してはこちらでも追記しています→致道館致道博物館鶴ヶ岡城址
今年は明治150年と言うことで庄内でもいろんな特別展が行われております。

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残念ながら鶴ヶ岡城の建物は明治9年にすべて破却されたのですが、そのあとの明治10年になって荘内神社は本丸御殿跡に建てられた神社であり、酒井家の歴代藩主が祭神であります。

400年にもぜひ来たいもんです
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by enokama | 2018-10-07 23:33 | 庄内藩 | Comments(0)
今回、庄内に行った理由の最大の理由は酒田市立資料館で展示中の「幕末酒田の異才 本間郡兵衛」でした。
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by enokama | 2018-10-03 21:15 | 庄内藩 | Comments(0)
ひとつ前の記事の通り、庄内に行ってきました。
一日目は致道館&藤沢周平記念館〜鶴岡公園周辺散策の後に井岡寺へ行き、大山から加茂に行きました。
平日なので話題の加茂水族館にも立ち寄ってきました。おさらく休日では大混雑でゆっくりもできなかったですしね。
そこから砂防林沿いの道を35分ほど走って、酒田の本間美術館「西郷隆盛と志士たち」展の最終日へ。

そちらからFBで交流させていただいているRicoさんと合流して、夕食は中町の「笑快晴」で新鮮な魚と庄内の地酒を堪能。
翌日は酒田市立資料館の「本間郡兵衛」展を研究員さんの説明を受けて一時間半ほど滞在。
そのあとは南洲神社で以前もお会いしたAさんに案内をしていただき
昼は太田舟二シェフ(→関連記事)の「Nico」でフレンチをいただきました(バイコロッケもいただけました)。
山居倉庫と日和山公園で写真を撮った後に国宝羽黒山五重塔の特別公開へ。
鶴岡市内に戻って鶴岡市郷土資料館「菅実秀」展を17時の閉館まで、一階の図書館で18時すぎまで資料のコピーをして、エスモールから20時のバスで京都に帰りました。

レンタカーの走行距離が111キロで燃料代が1202円、夜行バス割引で二日間借りて13824円でありました。
バスが京都駅八条口〜酒田エスモールで14700円×2。
ホテルが朝食込みで6600円。各入場料が3000円で食事は9000円で、他書籍土産購入等のトータルで70000円ほどの旅費となりました。

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食レポは苦手なんでRicoさんに紹介していただいてますが
やはり「食の都・庄内」の食材は最高だし、その新鮮な状態で素材の良さを生かした料理を手ごろな値段でいただける魅力があります。地酒も定評ありますしね。
残りの二食は鶴岡でラーメンでした。
基本は魚介スープでこのあたりも素材を生かしたものと言えます。
また細かいレポは資料も整理しながら順次更新していきます!


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by enokama | 2018-09-29 23:18 | 庄内藩 | Comments(0)
夏は災害続きだったし、9月になってからは同僚が入院して穴埋めがあったりして忙しく休みもうまく取れてなかったのですがどうにか落ち着いてきましたので
来週の連休明けの25日と26日の平日滞在になりますが、庄内に行くことにしました。

最初に行ったとき(仕事でしたが、以来ちょうど5年毎に3回行ってる)は関西から「特急日本海」だったり「急行きたぐに」があったりしたわけですが
前回は新潟まで夜行バス+特急いなほで到着が酒田10時半過ぎるというルートで(飛行機も真昼間に発着となってしまう)なかなか滞在時間が効率よく取れない事情もあったのですが
今回は(→こちら)庄内へ直行のバスを使えるので、現地2日間を有意義に使えるように回ってみたいと思います。

24日 京都駅八条口21:30→鶴岡エスモール7:55
26日 鶴岡エスモール20:00→京都駅八条口6:35

片道14400円ですが、10日前までの予約ならば往復割引で25920円になります。
ちょっと遅れてしまったので今回は割引を取れなかったのですがね。。。
また夜行バスでクーポンをくれるので、レンタカーは2割引きで使えるようです!
レンタカーは鶴岡で借りて、鶴岡で返して丸2日回ります。



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by enokama | 2018-09-19 17:35 | 庄内藩 | Comments(0)
150年前の12月25日の出来事。今までに、この記事は何度も書いてきましたが

庄内藩の薩摩藩邸焼き討ち事件→その1その2
庄内藩江戸屋敷→こちら
ゆかりの場所→こちら
薩摩藩・慶応3年の関連記事→その1その2その3

相変わらずあまりにも誤解や誤った認識が多いので、ちゃんとまとめて世間に出したいなと思って文章にためていました。
未だに発表する機会がないので寝かした状態ですが、ちょっと今年もあんまりなことをネット(西郷の陰謀とか)で広められているようなので、西郷や大久保、庄内藩、小忠順、慶喜それぞれの立場の真相をぜひ知っていただきたく、一部分だけ引っ張り出してこちらで紹介してもらいます!
一方的に薩摩が戦争に巻き込んだわけではなく、旧幕府側にも戦端を開きたいと思う人物がいて、旧幕軍もどんどん上坂していたと言う背景もありました。

本来は長文の中の一説なのでわかりづらい分もあるかと思いますが、紹介していただければ幸いであります。
あと薩摩藩と言う表現が使われがちですが、この時点の「薩摩藩」の意は家近良樹さんの言葉を借りますと「西郷・大久保らの在京強硬派」とした方がいいと思います。




本文>>
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by enokama | 2017-12-25 14:32 | 庄内藩 | Comments(0)
関西から庄内への交通は
特急「日本海」(→こちら)・急行「きたぐに」(→こちらこちら)と相次いで廃止となって、大阪からの航空便も昼発・昼着のみで久しく直行便の設定もなく(羽田乗換)滞在時間の効率も悪く、しかも競合機関がないので料金も馬鹿高で「簡単に行けない」と言う事態となっていました。
反面で持て囃される新幹線もね、まだまだ人口が増える時代ならともかく、それも見込めない中で開業当初は「開業効果」ってことで派手にニュースは流れるけど、果たして維持はできるのか(リピーターの獲得が地域の課題)しかも一番肝心な地域の足の在来線をなぜJRから切り離してまで新幹線を優先するのかが疑問でありました。
「日本海」も並行在来線が相次いで第3セクターになった影響で、その乗入料の負担も廃止の原因の一つだったとか。
また末期は車両の老朽化もあって、運休も多かったりして投資も控えて、廃止ありきの姿勢だったとも聞きました。

でも自分の住んでる町から夕方、例えば大阪駅に出たら「函館」行きの列車があって、寝てたら昼前に着くって絶対楽でしょう。
飛行機なら関空行くだの、羽田乗り換えだったり、函館に着いたらさらに中心街へのバスに乗らなあかん。
駅だったら、すぐにロッカーに荷物放りこんだら観光できるし、やり方次第では需要もあっただろうと思う。
なので関西から庄内に行くには「きたぐに」もなくなってしまった現状で新潟まで夜行バス、新潟からは一本目の「いなほ」に乗って11時前に着くってルートが唯一と言っていいものでありました。
それが今の時代に考えられなかったのですが、いいニュースが・・・


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by enokama | 2017-06-07 18:18 | 庄内藩 | Comments(0)

新徴組のドラマ

BSで新徴組の時代劇とそれに先立った紹介する番組をやってました。
ビビる大木と堀口栞純が出てて、わかりやすい内容だったかと思います。
ドラマではあまり出てこなかった庄内での取材もあったようで、新徴組の子孫の方がまだ松ヶ岡におられるんだなと感慨深いものがありました。
よく庄内に対する西郷の寛大なる取り扱いも言われることですが、庄内藩が新徴組を国元に引き取ったころは(恭順しようとする)勤王派とも言うべき勢力を粛清してしまっているので、朝敵にならざる得ない事情があったり、酒田の商人たちも薩摩との商売はもちろんあった上(情報は十分入っていたはず)での藩への協力は覚悟を決めた上での戦いであり、その上で終始有利な戦いを進めた経緯では当然だったかなと思います。
だから書物も読んでも「薩摩にはめられた」的な表現はあっても、某所のように卑屈にはならないし「やりきることはやりきった」として、その後の薩摩との割り切った友好的な関係が伝えられるのも僕が庄内藩に惹かれる要因であります。





ドラマの感想>>
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by enokama | 2017-01-15 10:08 | 庄内藩 | Comments(0)