エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

カテゴリ:歴史連載( 76 )

韮山~江川家住宅

伊豆地域の実力者であった江川家は戦国武将・北条早雲の伊豆進出の際に二十三代英住が臣下となって、屋敷の背後にある平山を提供し(韮山城築城)領地を安堵され以後、五代にわたって北条氏の家臣となった。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には韮山に籠城する二十七代英吉と徳川家康に仕えた二十八代英長が対立する形となったが、英長がうまく和議を進めて父子ともに徳川家に仕えることとなり、徳川幕府の成立に伴い伊豆が幕府の天領となる際に江川家は世襲代官となって、この地を引き続き治めることとなる。
管轄地は幕末のころには伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐と広範囲に及び、石高は六~七万石に及んだ。


f0010195_00025786.jpg
主屋は1600年ごろに建てられたとされるが、部材に関しては室町時代にさかのぼるものも使われていて歴史を感じるものである。
現在は写真のように銅板葺きとなっているが、かつては茅葺きだった。
広大な土間は高さもあって、迫力のある梁や柱で残されている。
書院の塾の間では机が並べられて幕末の開明家で知られる三十六代当主・江川英龍(担庵)が開いた砲術を中心とした塾である「韮山塾」の往時が再現してある。
三間余四方十八畳の部屋で塾生の宿所でもあった。
弟子は佐久間象山、川路聖謨を始めに薩摩や長州と言った諸藩からも大山巌・黒田清隆と言った人物がいて、江戸と韮山を行き来する英龍は江戸でも講義を行ったが、韮山では実際に韮山城跡の土塁や屋敷の周辺地で大砲を使った実地訓練が行われた。
展示品には自作の短刀・煙管・絵画と言った物もあって英龍の多才ぶりがうかがわれる。
英龍に関してはここでは書ききれないぐらいのエピソードがありますが、品川台場やヘダ号の建造も大きな功績と言えます。
その韮山代官としての治世では農兵制や種痘の実施が特筆される事柄で、領民に慕われた善政を敷きました。
展示に関してはHPが詳しいです→こちら


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2017-04-16 17:09 | 歴史連載 | Comments(0)

韮山城跡と蛭ヶ小島

静岡のレポを再開します。韮山に行ってきました!

まずはこちらから、蛭ヶ小島。
f0010195_22594145.jpg
f0010195_23014281.jpg
特に何があるということはないんだけど、昔から有名だったようで江戸時代に立ったような石碑もいくつかありました。


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2017-04-12 22:55 | 歴史連載 | Comments(0)

沼津藩と沼津兵学校

こちらも昨年3月に訪れた場所なんだけど、SNSでお勧めいただいたのが沼津でありました。
三島から沼津方面への旧東海道沿いのバスが多数あった(昔は路面電車が走っていたらしい)のでそちらで移動。
人口10万の三島に対して、20万の沼津はかなり大きな印象を持ちました。なんで新幹線が止まらなかったんだろう。
日枝神社近くでバスを降り、天城峠や修善寺の方から流れてくる狩野川(沼津が河口になる)を渡って、古刹の霊山寺に向かいます。。。
f0010195_23452713.jpg


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2017-03-06 23:44 | 歴史連載 | Comments(0)

静岡(駿府)の幕末史跡

清水から静岡までは静岡鉄道で移動します。
JRの方が早いんだけども、港橋から新清水~新静岡から駿府城跡と移動が近いこともあります。
元々はお茶を清水港に運ぶために作られたそうですが、現在は二両編成の電車がかなり頻繁な本数で両都市間をつないでおります。
f0010195_05114254.jpg



もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2017-02-20 09:10 | 歴史連載 | Comments(0)

清水港~次郎長の史跡

ちょうど駅から西が宿場町で一通り回ったあと、清見寺の近くでバスに乗り(1時間に1本で本数が思ったより少ない)清水港方面へ行きます。
f0010195_18125994.jpg


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2017-02-19 18:17 | 歴史連載 | Comments(0)
清見寺は徳川家とも皇室とも所縁の深い古刹である。
明治天皇やこの地に海水浴に訪れた大正天皇の御在所、昭和天皇の宿舎ともなった。
少し高台にあって、往時は三保松原方面の眺望もよかったらしいが今は残念ながらその面影はない。
f0010195_01401586.jpg




もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2017-02-12 01:43 | 歴史連載 | Comments(0)
東海道十七番目の宿場町が興津宿。かつては風光明媚な海岸があり「避暑地」として、井上馨、伊藤博文の養子・博邦、西園寺公望、川崎財閥の創設者・川崎正蔵ら明治の政財界の実力者らが競って別荘を建てた。
f0010195_14213686.jpg

f0010195_14400100.jpg

大正天皇も海水浴に訪れている。
f0010195_14232408.jpg


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2017-02-09 14:42 | 歴史連載 | Comments(0)
南宗寺には「徳川家康の墓」なるものがあるのが有名で、大坂夏の陣・茶臼山にて後藤又兵衛の槍に
突かれ、堺まで逃れたもののこの地で息絶えてしまい、開山堂の下に葬られたと言うことだ。
沢庵和尚を祀っていた開山堂も空襲で焼け、跡地に無銘の丸い墓石が現れている。
坐雲亭と呼ばれる現存最古の建物には、徳川秀忠・家光が南宗寺に相次いで訪れた板額が残されていて
「なぜ歴代将軍がそこまで」と言う謎も、家康の「大坂死亡説」に拍車をかけている。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2016-03-16 19:46 | 歴史連載 | Comments(0)

堺~寺町から南宗寺

先日、車の車検時期が来たので
平日朝に預けて夕方返してもらう「日帰り」でお願いした。
その間、どこかに行こうと思って阿倍野から堺へと行ってきました。
まずは堺から紹介します。。。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2016-03-13 23:43 | 歴史連載 | Comments(0)
二月末日(太陽暦・3月23日)英国公使一行は午後一時に御所へ向かい、宿舎の知恩院を出発していた。
パ―クスとミッドフォード、アーネスト・サトウらの公使館員、周辺には接待役である土佐の後藤象二郎、
その側近的存在である薩摩脱藩士・中井弘が英国警視と共に先頭に立っていた。
警護には英国連隊第二大隊分遣隊と肥後藩士300名が付いていた。

一行は知恩院の西側の参道ともなっている新橋通を西に進み、突きあたった縄手通(大和大路通)に出て右折し
北上、三条大橋東詰から鴨川を渡って御所へ向かい、天皇と謁見する予定だった。。
この襲撃事件が起きたのは、行列の先頭が縄手通に入り、最後の騎馬護衛兵が縄手通を曲がろうとした
瞬間であった。

縄手通の中井と朱雀が斬り合ったあたり(地図の赤印)
f0010195_22481538.jpg

二人の刺客が往来から躍り出て襲撃してきた。そして列に沿って走りながら、狂気の如く斬りまくったのだ。
次々と英国人護衛らを中心に11名が瞬く間に負傷した。

刺客の一人、朱雀操には先頭にいた中井が馬を下り対峙した。狂気を帯びた男は相当手ごわい。
そして、斬り合ううちに中井は長い袴の裾が足に絡みついて、あお向けに倒れた。
そこへ刺客は刀を振るうが、辛うじて頭にかすり傷を受けたまでで済んだ。間一髪である。。。
反撃した中井は相手の胸を突き刺し、そこへ駆け付けた後藤が肩に一太刀を浴びせた。
そのひるんだ瞬間に起き上がった中井は朱雀の首を取り、討ち取ったのである。
その時、300人もいた肥後藩兵は沈黙していたと言う。

行列の最後(新橋通と縄手通の角から縄手通方面・地図のオレンジ印)
f0010195_22485828.jpg

もう一人の刺客・三枝蓊は後列のパークスらの方向に向かって駆け込んでくる。
一人の英国歩兵警護隊士は頭部を斬られ重傷を負った。
そして、他の歩兵の小股にすくわれ倒れたところを銃剣で突き刺されたが、さらに民家の庭に逃げ込んだ時
放たれた拳銃の銃弾が下あごに当たり、ようやく取り押さえられた。
難を逃れた英国公使一行は一旦、宿舎の知恩院に引き返した。
負傷者はこの時期に京都に詰めていて、のち一連の戊辰戦争でも戦傷者に対し数々の外科手術を行い
命を救った英国人医師ウィリスも処置を行った。

刺客の最後>>
[PR]
by enokama | 2016-01-12 18:49 | 歴史連載 | Comments(2)