エノカマの旅の途中

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酒田へ~本間家と酒田

酒田の豪商・本間家のルーツは越後からとされ、元禄2年(1689)に初代・原光が、市内・本町一丁目に
「新潟屋」を開いたのが始まりで酒田では新興勢力と言っていいが、商売が大いに奮い宝永4年(1707)
には、早くも「酒田三十六人衆」の長人にも選ばれている。

三代・光丘の代に、農民に融資を行う(のちには、困窮藩士にも)地位を占め、土地も取得し
「全国一の大地主」と呼ばれるようになり、藩全体に影響力を及ぼすに至った。
本間家の方針は「儲けは土地の取得に回せ」とされ、結果的に小作人になった農民たちにも
搾取することなく十分な生活保障をした。
(一方で土地の集積は進んで、このあたりは議論が分かれるところである)
長人としての酒田の町作りに関しても、日本屈指の砂丘地帯であり「風の町」で強風にさらされた
砂害を防ぐために「砂防林」として松の植林を手がけるなど、公益事業にも力を入れた。

また、藩主・忠徳の時代には「藩政改革」を任され、藩借財の整理や、私費にて二万俵を献出
し飢饉時の備えとする「備荒制度」を整備し、藩政を立て直した(のちに上杉庸山の米沢藩の
改革にも携わった)
この後、本間家は藩に食い込むことによって巨利を得る一方、藩もその危機のたびに「本間家」
に援けられることとなり、波乱の幕末に臨むこととなる。
「備荒制度」は各地で多くの餓死者が出た、のちの「天保の大飢饉」の際にも庄内では一人の
餓死者も出さず、さらに「貸付金の切捨て」も行われた。
このことがのちの「三方国替え」阻止の運動や、戊辰戦争時の領民の多数の志願兵にも
つながってくるのである。

本間家旧本邸
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三代・光丘の時代、明和五年(1768)に幕府巡検使一行の本陣宿として建築し、酒井家に
献上され、のちに本間家が拝領している。
この経緯で表が武家作りで、裏は本来の商家作りとなった二つの建築様式を持っている。

第二次大戦後「農地改革」によって本間家は多くの土地を失い、この本邸も地区の公民館に
転用されることとなる。
そのせいで貴重な襖絵に墨汁が着いていたり、柱には画鋲の跡が残ったりしています。。。書道教室だったらしい。
(別邸の清遠閣は酒井家、米沢の上杉家の拝領された美術品を基に「本間美術館」として昭和22年に開園)




砂防林
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by enokama | 2008-12-04 23:44 | 庄内藩 | Comments(0)