庄内へ行ってきました~西郷への傾倒と松ヶ岡の開墾
「松ヶ岡」の場所は?
バスで15分ほど「ゆぽか」(温泉施設)で降りて徒歩20分!
う~ん、バスはそんなにないし、そんなに歩くのもなーと思い
「自転車では?」「行った人もいますけど大変だったらしいですよ」
自転車で内川を越え、加藤鉱一事務所の前を通り、明治に庄内士族がまず最初に開墾した赤川
(羽黒橋)を渡ると見渡す限りの田園地帯で、稲刈り真近な黄金色の稲穂が頭を垂れてました。
このあたりは出羽三山の一つ・羽黒山に向かう「羽黒街道」と言う道で、最近まで独立した
羽黒町(鶴岡市に合併)という町でした。
田畑や村中を右左と曲がり、登り坂で自転車の速度も自然に落ち「まだか・・・」と思いつつ
赤川を渡ってから20分ぐらいで5棟の蚕室を残す「松ヶ岡開墾場」に到着します。
江戸市中見廻りを庄内藩士と共に行った新徴組の隊士の中には
その庄内藩の国元引き上げの際に同行した者も多く136名を数えた。
明治二年一月。菅実秀は上京の折に先年の寛大な処分に感謝すべく黒田清隆を訪ねた。
そこで黒田はその指示が西郷隆盛だったことを告げた。
この時から庄内士族の西郷を始めとする薩摩との交流と傾倒が始まる。
三年七月には旧藩主酒井忠篤は犬塚盛巍、長沢惟和を派遣し藩知事島津忠義に親書を手渡す。
明治四年七月。廃藩置県に伴い酒田県となるが、松平親懐ー菅のトップは変わらず
県職員もほぼ旧庄内藩士で占められていた。
仙台藩のトップ2、但木土佐ー坂英力が斬首と言う結末に終わったのに比べると雲泥の差で
これは鹿児島と酒田のみであり、西郷の影響が非常に反映されたものである。
そして明治五年。西郷の激励、バックアップを受け「松ヶ岡開墾事業」がスタートする。
四月にまず伊勢横内・斉藤川原・赤川の河原地の開墾から試行した。
引き続き月山山麓後田山の不毛の地に着手、五十八日で終えて茶や桑の苗を植えた。
この数3000人、上記の新徴組隊士も含まれていた。
十月十五日完成。後田山は酒井忠発の命名により「松ヶ岡」と改められた。
この開墾の成功を受け、北海道開拓の中心人物となっていた黒田は庄内旧士族の派遣を要請し
また、この開墾事業中、その厳しさ故に脱走者が続出したと展示にありましたが
(松ヶ岡開墾記念館)それには裏の事情があったようです・・・