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エノカマの旅の途中

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運の良かった男? 田中顕助 その2~ぜんざい屋事件から陸援隊

今でも玩具屋が軒を連ねる大坂・松屋町に「松蔵屋」と言うぜんざい屋があった。
その主人は本多大内蔵と言い、元は京都に住み武者小路卿の家来だったが長州人と交わっており
長州勢が京都を追われると、浪人となって大坂に流れてきていた。

その本多が、征長に備えた幕府軍が将軍直々に大坂城に入り、押し出してくるとの情報を持って長州に入ってきた。
それを聞いた土佐の浪士たちは「大坂の町を焼き討ちし、将軍をさらおう」となんとも世間知らずな無謀な計画を立てるのだ。
「長州征伐の裏をかいて、後方かく乱しその隙に兵を挙げる」彼らは勝算ありと信じていた。
メンバーは共に佐川から脱藩してきた井原、橋本、那須盛馬、池大六。
先に脱藩していた土佐浪士・大利鼎吉、千屋金策、そして天誅組の生き残り・島浪間も合流する。

大坂入りした彼らは本多の店を根城として焼玉等武器弾薬を準備し、計画を進めていった。
また、千屋・井原・島は同志獲得を意図して中国地方に遊説に出かける。。。
しかし、これが悲劇の始まりだった・・・
作州土居という所で彼らは路銀に窮して、紹介あって地元の勤王家とされる豪商を訪ねる。
しかし彼らの身なりを見て、すんなりとは信用せず「出す。出さない」で押し問答となった。
そこで「強盗」との通報をされ、附近の百姓たちに囲まれる騒ぎとなり、皆自刃して果ててしまうのだ。

やがて大坂でも挫折する。
新撰組の入隊したての隊士で、道場を大坂で開いていた谷万太郎(新撰組・見廻組あたりでは、しきりに腕の立つ道場主らを勧誘していた)はある筋から、この情報を得て「入隊の手土産」とばかりに京都の手は借りず、同志3人と共にぜんざい屋に踏み込んだ。
しかしいたのは店主の本多と大利だけで、他の者は留守にしていた。
本多は脱出し、大利一人となったがかなり腕の立つ人物だったらしく、4人がかりでも討ち取るのに1時間ほどかかったと言う。
この結果に土方歳三は「雑魚だけか・・・」と一喝したとも伝わる。
「大坂城焼き討ち」の壮大な無謀な計画は破れた。しかし踏み込まれずとも蜂起はとても無理だっただろう。
この出来事はのちに「ぜんざい屋事件」と呼ばれ、跡地に大利鼎吉の顕彰碑が残っている。

2009年5月撮影
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顕助は那須と共に十津川に逃れ、京都に出る。
ここで中岡慎太郎と出会うこととなる。
「顕は兄とし事ふれば、中岡氏顕を見て弟として愛す」
高杉に取り入った時のように、可愛げのある人柄だったのだろう。
脱藩後の顕助の道筋は定まった・・・
ここから慎太郎とともに「薩長融和」に向け活動をし、やがて組織化される陸援隊の幹部も任されるようになるのだ。
また橋本改め大橋慎三は、水戸藩本圀寺党を抜けた香川敬三の紹介で、まだ奸物とも言われていた岩倉具視に接近し知遇を得、やがて慎太郎・三条実美と手を握らせていくきっかけを作っている。
大橋・香川もまた、いずれも陸援隊の幹部となっている。

慎太郎の死後、陸援隊は顕助・大橋・香川らの指揮のもと「高野山」に出兵し、態度の定まらない紀州藩の牽制に当たった。
この中には中島作太郎・斎原冶一郎(のちの大江卓)岩村誠一郎の名も見られる。
斎原・岩村ともに風雲急を告げるこの時期に土佐から馳参じてきたのだ。
十津川などで募兵も募った。しかし、先年の天誅組の一件もあり猜疑の目もあったと言う。
この際、因縁の「五條代官所」も降伏している。


土佐は「脱藩」が名物?と言うぐらい国の事情もあり、多くの人物が国を抜けた。
「あらかじめ志を持っていた者」「罪を問われて止むを得ず」「抑えられない気持で」いろんなパターンがあっただろう。
吉村虎太郎は脱藩し浪士らで大和挙兵、中岡慎太郎は捕縛の動きを逃れて長州へ走り
坂本龍馬も流転ののち、勝海舟門下生から薩摩藩を頼り、海運を通じて生きる道を見つけた。
顕助は肉親の事情もあっただろうが、長州に走ったはいいが何をしていいのかわからなかったのが実情だろう。
そういった模索の中で多くの同志を失ったが、生き残って維新の礎となれた幸運があった。

慎太郎・龍馬は脱藩浪士の範囲を超えて一個の革命家に近い存在となり、それぞれの結社はその浪士たちの受け皿となって生きる道を与えた。
しかしその「草莽」の存在は、悪く言えば「使い捨て」「利用される」と言った面を産んだ。
土佐、水戸・・・やはり、明治では薩長閥の後塵となった。
顕助は維新後の土佐閥にあって、岩倉使節団にも加わる幸運(もっとも若手の部類)長寿もあったが栄達した一人とも言える。
しかし脱藩した経緯からも、土佐の民権派とは一歩開けた関係で、高杉晋作らとの関わりから長州閥とのつながりも利用して泳ぎきった面もあるだろう。
長州に走った土佐脱藩浪士はほとんどが死んだといっても過言ではない。
わずかに生き残った者たち共通に、やるせない面も感じていただろう。
顕助、晩年は維新志士の顕彰・遺墨の収集にあたり「生き証人」として話を伝えた。
昭和14年、満95歳で没。。。

Commented by ji5isl at 2008-09-02 01:45
面白い、よくわかりましたー。
海援隊の龍馬以外の隊士の活躍はアレコレと本に出ているんです
が、陸援隊の隊士の働きって言うのがもう一つわかりません。
大橋慎三がキーになる働きは佐川の資料でなんとなく。
田中顕助の一番の功績は晩年の志士の顕彰・遺墨の収集だとも
言われてますが・・・。
Commented by enokama at 2008-09-02 19:06
調べたら、ぞくぞく脱藩してくる者に対して受け皿はあった訳ですね。
坂本龍馬も結局は勤王党の重鎮・間崎哲馬を頼って、世に出たように・・・
何が何でも脱藩だけして、何をしていいのかわからない。
ほんと世間知らずもたいがいですが、どう言う出会いをしてどう
転がるってのも、運もあったでしょうね。
新撰組の対応といい、ちょっと間の抜けた様な話でした。。。
by enokama | 2008-09-01 23:44 | 土佐藩 | Comments(2)