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エノカマの旅の途中

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幕末福岡藩の動きと挫折~そして乙丑の獄 その2

筑前勤王党の首魁と言えば、月形洗蔵。
「月形半平太」と言う話が作られているように、土佐の武市半平太とは双璧の存在だったのかもしれない。
一方で激しすぎる性格だったとも伝わり、中岡慎太郎は「この人とは合わない」と書いているほど・・・
しかし、月形は武士としての名誉の死を許されなかった。
テロの直接的な関与は見られず純然たる政治思想犯であるにもかかわらず、除族の上
「斬首刑」と言う極刑に処せられた。慶応元年(1865)十月二十三日のことである、享年三十八歳。

勤王党の精神的支柱と言うべき、藩医の鷹取養巴。
月形とともに、遠賀の村医だった早川勇をはるばる訪ね、盛んに論じあった。
土佐で言えば、間崎哲馬あたりの人物になるだろうか。
そんな鷹取も斬首となった。
ただ一心な思想だけが彼を葬り去った(→墓所

筑紫衛は千石取りの上士でありながらも、月形一門にあって勤王派と交る。
その中でも過激な行動に出ることが多かった。
一族預かりとなって蟄居中の自宅の便所の汲み取り口から脱走を図った。
そして川を泳ぎ切って逃亡したが、厳しい取調べのため、それまでの体力の衰えもあり溺死した。
その遺体は塩漬けにされた上、改めて首を打たれた・・・

この獄では水責めや殴打等、過酷な拷問が行われたが一人して口を割る者はいなかったと言う。
しかし、一連の暗殺等の関与が疑われた者、またこの勤王党の獄を見て救出を図った者も含まれていたが
この機を見て勤王党及び類すると見られた者はことごとく斬られたと行っていい。
この日、枡木屋の獄に入れられていた十四名は次々と首を打たれた。


土方久元「回天実記」には次のような記述がある。

十月二十五日早起五ッ時参殿八ッ時退出一昨二十三日之夜当藩正義家十五人陰々密々斬首有之候由
然未た姓名等は不相分形勢如此憤慨之至也今夜俄に五卿方使者として武部諌尾(清岡公張)
大山彦太郎(中岡慎太郎)両人福岡へ被差立候事に相成右に付暮頃より又々参殿五ッ時退出

また、勤王党を代表する家老で、ほんの数ヶ月前まで長州の五卿動座・征長兵解兵の最前線にいた
加藤司書も切腹を命じられた(十月二十五日)
同日に彼に近い勤王党寄りの三名の重役も切腹している。
加藤は解兵に向けて征長総督府のある広島にいたころ、長州や西郷隆盛と交わるうち幕府の弱体化をさとり
その後「幕府に頓着せず・・・」と言った思い切った建白を出したが
到底、佐幕派の強い藩上層部には受け入れられるものではなく、のち罷免されていた。
あの高杉晋作を匿ったこともある平尾山荘の野村望東尼は孤島・姫島への流罪となっている。
(流されて10ヶ月後、高杉の意を受けた福岡脱藩浪士らによって
救出される。高杉の臨終に立ち会ったあと、三田尻にて没)

長州にあった五卿の動座・征長兵解兵に福岡藩は多大な周旋行動を行い、長州の激派・諸隊相手には
文字どおり命を張った行動だった。
その多くは藩主自ら、その人脈を信じ命令した勤王党の面々だった。
さんざん使っておいての上でのこの仕打ちである。
そして、誰もいなくなった・・・

だだ一人、長州の最前線にいながら、唯一死罪を逃れた人物がいる。
早川勇。牢居を命じられた・・・僕もなぜ彼が助かったのかずっと謎だった。
ただ、死罪だったのは確かだが藩主・長溥が一等罪を減じたのは確からしい。
「のちに使うこともあるだろう」との意もあったと言う。
実際、早川は明治維新後、福岡藩を一身に背負うこととなるがわずか一人。
あまりにも血が流れすぎた。
この後は人物がいなくなったこともあり、情勢の変化にも対応することもできず福岡藩は無力化していった。
のち戊辰の役に福岡藩も出兵するが、寄せ集めで士気も乏しい兵は各藩の笑い者となったと言う。

そして、まだまだ悲劇は続く・・・

Commented by ゆずぽん at 2007-12-13 00:21 x
う~ん・・・壮絶な弾圧だったのですね・・・。
惜しい人物がたくさん失われた・・・。生きていたらもっと維新の扉は
早くに開かれていたのでしょうね。
余談ですが、土佐旅行記(9)アップできました~。
また、ヒマな時に覗いてみてくださいね。

Commented by enokama at 2007-12-13 22:37
どう考えてもやりすぎです。
この藩主は、ほんとひどい愚かなことをしたと思うんですが
なぜかあまり悪く書いてる人いないんですね。
維新後の殿様の弁明は、書物をいっぱい残した松平春嶽以外
はあまり残ってませんね。
Commented by ji5isl at 2007-12-14 05:02
>士気も乏しい兵は各藩の笑い者となったと言う
なんとも壮絶で・・・絶句
>維新後の殿様の弁明
話題にもならんですね・・・維新後の殿様たちは。
容堂もひどかったらしいし。
by enokama | 2007-12-11 23:06 | 福岡藩 | Comments(3)