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幕末福岡藩の動きと挫折~筑前勤王党 その2

「安政の大獄~桜田門外の変」と世の中が騒然とする中、勤王党首魁・月形洗蔵は行動に出る。
桜田門外の変後の政情不安の中での参勤交代の中止を求めたのである。

藩主・黒田長溥は、井伊の独裁政治には批判的で「全国一和」の信条の下
朝廷と幕府の悪化した関係を修復したいとの思いを持っていて、この機会を狙って
月形は思い切った建白を出す。

「天朝は天下の君である 幕府は諸侯と共にその臣である」とし
参勤せずに在国し、富国強兵の策を講じるべきであり、今は参勤出府の時期ではない。
参勤するのであれば大兵を率いる覚悟で、一藩の犠牲を辞さない覚悟が必要だ。

土佐の山内容堂同様、勤王の意はあったと思え、思い切った藩政改革は保守派の反発を招き
勤王派からは淡い期待を抱かれ、苦悩もあったかと思う。
しかし、幕府否定の考えは到底、許されるものではなかった。
長博は一時的に参勤を延期したものの、参勤を決定した際には勤王党の処分に踏み切り
30名以上の関係者が幽閉・流罪となる。
これを「辛酉(しんゆう)の獄」(1861年4月) と言う
洗蔵らも幽閉となるが早川らの運動や、井伊体制後の文久期の緊張緩和もあり
1863年6月に釈放される。

同年8月「八一八の政変」で京の朝廷と結びつき、攘夷を目論んでいた長州勢は七卿と
共に追放され(のち五卿に)薩摩との仲は険悪なものとなってしまう。
しかし、この直後から月形・早川らは、同じ西国尊王雄藩の同盟「薩長同盟」(薩長筑)の構想を
早々と打ち出す。
背景に長州に同情的な勤王党の面々、藩主の出身である薩摩とのパイプがある。

長州は禁門の変、4カ国艦隊の砲撃、第一次征長と言った流れで窮地に立たされた。
そこへ藩主・長溥は救済に乗り出す。
征長軍の解兵。その条件に出された五卿動座での福岡藩(大宰府)で一括引き受け。
家老・加藤司書は征長総督府の置かれた広島に再三赴き、尾張や薩摩・西郷らとの交渉に臨み
一方、勤王党の月形・早川勇が中心となって、このころは長府・功山寺に滞在した五卿との対面や
五卿引き渡しに否定的な諸隊との交渉に決死の覚悟で臨んだ。
このころが一番の筑前勤王党のめざましい活躍が見られたころである。
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Commented by ji5isl at 2007-10-23 00:00
福岡藩の動きも重要ではあったんでしょうね、この辺あまり表舞台
に出てこない・・・って思うのは知らない私だけでしょうか。慎太郎
の本を読んでいると、この「大宰府」がよく出てはきますね。だか
らなんだと思ってました(苦笑)。
ところで、龍馬の芝絵が発見されたと高知新聞に。松岡さんのコメ
ントも出てます。見ます?送りますが。
Commented by enokama at 2007-10-23 23:55
>ji5islさん
こんばんは!
福岡藩のこと、表舞台に出てこない以上に、書籍もネットでくぐっても
出てこないのが現状です。
月形洗蔵もどんな人物だったか、最近ようやくわかった次第です。
また、引き続きアップしていきますね!

芝絵って何なんでしょうか?
by enokama | 2007-10-22 22:32 | 福岡藩 | Comments(2)