滋野井卿を擁した隊は関ヶ原から大垣、長島を経て桑名へ入った。
しかし東海道鎮撫総督府が大村藩・備前藩・佐土原・彦根兵を先鋒に二十二日に四日市に着陣していて
「諸侯を欺き、庶民を恐喝し、金穀を劫掠するもの」として滋野井隊の捕縛処断命令がすでに出されていたのだ。
罪科は近江にいた東本願寺門主光勝が援兵及び糧食を強請されたと訴え、行路にあった長島藩主からも同様な訴えがあったのだ。
出立してからの具体的な記録は当事者の幹部たちが亡くなってしまったことから、わからないが
滋野井隊は関ヶ原を出るころには170名ほどに増え、この多くが浮浪の徒や博徒といった人物だったとされ
このような草莽隊は藩の後盾がなければ基本的に自弁となり、素行の悪さとそれだけの人数を支えるための強請ぶりが訴えられたこともあって
偽官軍であり、公卿も偽物だとして処断されたのである。
二十六日に滋野井卿は四日市に出頭し、桑名の青雲寺にいた隊士らも引き出され
滋野井卿は京都へ召還され、隊士らも捕縛された。
幹部クラスは直ちに斬首されて、その他の者は追放となった。
四日市市街地の北側を流れる三滝川
八名の隊士は二十七日(二十六日とも)に三滝河原(幾つかの説がある)で斬首となった。この滋野井隊捕縛の動きについては長谷川伸「相楽総三とその同志」にいくつもの記録が載せられているが綿引富蔵に関しては三滝川にも近い建福寺に葬られたとあるが、前述のとおり松月庵に墓碑が残されている。そして同郷の小室左門も一緒に葬られたようである。
処刑されたのは以下の八名とされる。
山本太宰(曼殊院宮家人)川喜多真彦(国学者)安藤石見介佐々木可竹小笠原大和綿引富蔵(変名 玉川熊彦・下桧沢村郷士)小室左門(変名 赤城小太郎・東野村郷士)松田主計
山本太宰は滋野井卿の側近であり、曼殊院末寺である金剛輪寺で赤報隊が結成されたのは山本の手配による。川喜多は著名な国学者であり(ネットでくぐると川喜多の古典籍がいくつも出てくる)柳之図子にも出入りして、岩倉具視にも近い人物であった。のちに岩倉が川喜多の遺族に祭祀料を贈ったという。川喜多墓所は霊明神社西墓地にある。綾小路卿に従軍した隊士らは(新選組高台寺党の生き残り隊士を含む)京都に戻り、東海道鎮撫総督府の下に再編された。ただ相楽総三ら東国出身浪士のグループは東海道へ向かう命令を無視する形で、そのまま東山道を東下した。「年貢半減令」はすでに取り下げてあり、その行く手にはさらなる悲劇が待っていたのである。
(参考文献)相楽総三とその同志~長谷川伸
戊辰戦争と草莽の志士~高木俊輔赤報隊の結成と年貢半減令~佐々木克(論文)