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エノカマの旅の途中

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水戸市史に見る水戸藩の天保改革と結城寅寿 

永井博氏の著作を見て「水戸市史」の引用が多かったので、改めて確認したいなと図書館に行ってきました。
県史だったら、それなりの規模の図書館で開架であったりするものだが、市史はなかなか近くで収蔵しているところが少なく(水戸市史は大阪府立中央図書館(東大阪)と京都府立図書館ぐらい)しかも貸し出し禁止だったりします。

近世編は「水戸藩史料」に拠るところも多いようで斉昭関連はくわしく、僕はしばらく本圀寺党を調べていたんで「天狗党敦賀以降」ってのを知りたくって(慶応期とか極端に 水戸藩の史料が少ない)前に水戸に行ったときに市史で見て「やはり少ないな」(両池田候が本圀寺党を支援していたことはわかった)って感じだったんですが、天保の改革から斉昭の失脚・復権、結城派の処罰もあたりもしっかり書いてありました。




結城朝道(ともみち・寅寿)は「水戸の御三家」といわれた名家の出で、「農政改革」を手始めとした一連の水戸藩天保の改革には藤田東湖、戸田忠敞、武田耕雲斎(三田)といった斉昭の藩主就任に功のあった改革派(天狗派)とともに門閥派(結城派)の重鎮として、参政となり一連の「天保改革」(→こちら)の一翼を担った。二十三歳での異例の抜擢は斉昭の一定の能力への評価も得たものである。
大きな改革の柱だった「海防強化」では神道偏重(東湖が特に仏教を嫌った)の方針から寺院の釣鐘等を鋳潰し(寺院破却も激しかった)大砲を鋳造するといった動きが見られた。ただ梵鐘はともかく、目鼻のある仏像は取れる材も少なく(「廃仏毀釈」としてのパフォーマンスの意味も大きい)そこまでしなくてもとの戸田の反対意見(結城は推進派だった)もあったが多数に押し切られた。当然寺院からの反対があって幕府に通報され、幕藩支配体制の根底を覆すものであり、謀反の動きとも取られかねない。
老中首座として幕政改革にあたり是々非々の関係ながらも親交のあった老中水野忠邦が失脚し、阿部正弘の時代となって、斉昭はこの「廃仏毀釈」が最大の原因となって致仕・謹慎を命じられ藩主の座を追われる(天保十五年五月・1844)
側用人・藤田東湖、年寄・戸田忠敞、そして寺社奉行として(石仏や木仏も含めた)容赦ない廃仏毀釈も行ったという今井惟典の三名も免職蟄居となった。
結城はその血統もあってか廃仏毀釈に関わっていたのに幕府からの処罰からは逃れ(鳥居耀蔵とつながっていたともいわれる)引き続き執政として留まり、斉昭の急進的な改革に抵抗していた門閥派に担がれて不満分子と結びつき、天狗派を追い落とした張本人と目された。
しかし結城本人は天狗派はともかく、斉昭の禍までは望んでいなかったという。

その後の藩政は高松藩ら三連枝の後見の上、世子・慶篤が藩主となって天狗派は退けられていき、柳派とも呼ばれた門閥派が藩政を握った。
天狗派は直ちに「敬三郎(斉昭)擁立運動」の際のように支持者である農民・藩士の雪冤運動が始まり、江戸にも上がった。この運動の高まりもあって結城は執政の座を退いたが、引き続き影響力は保ち続けた。
十一月に斉昭の謹慎は解かれたが、藤田や戸田の処分は解けないままだった。
引き続き雪冤運動は激しくなっていき、尾張家紀州家や京都の公家らにも働きかけ、高橋多一郎は豪商豪農からの献金を大奥にばらまいた。

阿部正弘は外国艦船来航が現実のものとなり、藤田東湖や会沢正志斉の論文の海防論に裏付けられたブレーンを持つ斉昭の幕政への関与(やがて「海防参与」となる)を求め、七郎麿(慶喜)の一橋家相続等の関係改善も進み、嘉永二年(1849)になってようやく三連枝の後見が解かれ、斉昭は再び藩政に復帰し天狗派も復権することとなる。
この嘉永から安政での藩政改革では大島高任を招いて那珂湊に反射炉を建設、農兵の登用や郷校の増設であらゆる層が武術訓練を受けられることになった。
藤田・戸田も嘉永五年に謹慎解除となって、藩政改革や幕政に対応する斉昭のブレーン(海防掛に藤田・戸田・山国兵部)として活躍を始める。
大船建造の解禁などは「新論」に見られたように水戸藩の従来からの主張であった。

藤田・戸田が江戸の斉昭のブレーンとして活躍する一方で、水戸では門閥派が斉昭と藩主慶篤の離間策を図り、慶篤に対して「天狗党批判」の密書を出すといった動きもあって、結城には死罪(切腹)を求める強硬論も出るが、藤田東湖は寛大論を主張し「終身禁固」に留め、結城には(直前には因縁の今井惟典旧宅に禁固されていた)嘉永六年十月十六日になって長倉松平家で預けられる処分が下った。

其の方は若年より、前中納言様(斉昭)の側近として厚恩を蒙り、改革にも力を尽した。ところが去る弘化元年五月俄かに中納言様退穏、その他罰せられたのに、其の方だけはのがれ、実権を握って改革も取こわし、不忠不義の行いが多く、不束至極、其身一代松平松之允へ御預にする。

こうして天狗派主導の天保改革の旧に復した。

しかし水戸藩と天狗派にとっての悲劇が訪れる。
安政二年(1855)十月二日、いわゆる安政の大地震が起き、水戸藩の小石川邸も大きな被害を蒙る。
奥御殿も大きな損傷を受け、藩士らの住む長屋はひとたまりもなく、多くの圧死者を出した。
その中に藤田東湖、戸田忠敞の両名も含まれていたのだ。

by enokama | 2019-07-30 00:24 | 水戸藩と天狗党 | Comments(0)