まだ烏丸通沿いの今出川通から北西側のブログ記事は上げてませんでしたので、改めて書きたいと思います。
同志社大学に近い場所に古い石碑(→
こちら)
藤井右門は早くから尊王を唱えていた儒者であるが、1767年に処刑されている。幕末に尊王論が盛んになると、その旧宅が志士たちの集う場所ともなったという。
慶応元年(1865)岩倉に幽棲していた岩倉具視を松尾相永と藤井九成が訪ねたことがきっかけで
再び岩倉が歴史の表舞台に出たことで、倒幕~王政復古へと大きな原動力となった。
藤井九成はこの右門の曽孫にあたる人物で、旧宅にほど近い「柳之図子町」に住んでおり
同じ公家の周辺で働いていた経歴を持つ松尾とは隣り合わせに住んでいた。
安政四(1857)五年ごろから、彼らの家に尊攘志士たちが集うようになり
そのメンバーには梅田雲浜、久坂玄瑞、武市半平太というビックネームもいたと記され
岩倉の下を訪ねた人物には薩摩出身の藤井良節・井上石見兄弟もいて、小松や大久保とつなげ
陸援隊に加わることとなる水戸本圀寺党脱藩士の香川敬三や土佐の大橋慎三は、石川清之助と称していた中岡慎太郎に紹介している。
京都独特の図子の雰囲気は残っている感じ
こちらの石薬師大久保利通旧邸にあった「有待庵」が残っていたことで話題になってますが柳ノ図子町にもほど近い森之木町(室町通と鞍馬口通が交わるあたり、かつては「室町頭」ともいわれた)にあった近衛家別邸を幕末期に小松帯刀が寓居として使い、そこにあった茶室が移築されたものとみられています。黎明館に詳細な図が残されていたそうで現在の通りと当てはめることができるし、門や屋敷地の位置関係もわかります。