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エノカマの旅の途中

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庄内藩にやってきた桑名藩士と天領大山~その1

こちらにも書きましたが、桑名藩は本国では恭順と決したが
藩主の松平定敬は飛び地の柏崎領へ行き、徹底抗戦派の藩士と共に会津に赴いた。
しかし会津戦争では新政府軍の猛攻に対し、鶴ヶ城籠城戦と決した容保から定敬は米沢を目指して再起を図れと会津を離れたのが八月二十三日。
その報を聞いた桑名兵らも藩主の後を追うが、すでに定敬は仙台に向かったと告げられた上で(一部桑名藩士も榎本艦隊に加わり蝦夷地箱館へ向かう)早い時期に降伏へと傾く米沢藩への入国も拒否された。

多くの東北諸藩も劣勢であり恭順との流れが強くなっていく中で、庄内藩は豊富な資金力を生かした充実した武器を用いた戦力と士気が高く戦術に優れた兵は各戦線でまだまだ新政府に伍して戦っていて、新徴組の江戸での功で庄内藩は幕府から与えられた最上川流域の元天領だった寒河江・柴橋を依然として確保していた情勢であった。
そこで桑名兵は庄内兵と合流することとし福島から白石を経て笹谷峠経由で山形へと入ったのが九月十六日。
この合流に関しては「奥羽列藩コトゴトク西軍二降ル。独リ荘内ノミ屹然不屈、我(桑名兵)二国(庄内)二就キ力ヲ合センコトヲ請フ。我マタ荘内ノ為スアルベキヲ知ル」
として最後に戦う地として庄内へと向かうのだった。
そして寒河江に庄桑400の兵が滞在していた九月二十日の早朝の濃霧の中、米沢藩を先導として薩摩兵2500に急襲される。
いわゆる「長岡山の戦い」で桑名兵19名、薩摩兵10名の死者を出した。

そして約300名とされる桑名兵と他の戦線同様に藩への帰還を命じられた庄内兵は庄内本国へと向かい、九月二十五日に鶴ヶ岡城下に入る。
しかしすでに二十三日に庄内藩は降伏しており、桑名兵は謹慎の地大山へと移された。




大山は鶴岡の西方に位置し、江戸時代は初代藩主忠勝の七男忠解に分知され支藩の大山藩が誕生する。
その他の支藩は三男忠当が分知した幕末まで存続した松山藩。
肥後を追われ庄内に配流された加藤清正の子忠広が一代限りで治めた丸岡藩。
一代限りの丸岡藩が忠広の死後に天領となって代わりに与えられたのが村山郡の左沢藩で松山藩の領地となった(他に藩ではないが余目にも分知があった)
そののち大山と余目は無嗣断絶となって(忠解は26歳の若さで嗣子なく死去。墓は道林寺)丸岡と含めて庄内には大きく三か所の天領が存在した。
各所とも幕府方針の変化に伴って、幕府役人の派遣のあった直轄支配と庄内藩の預かり地となって実務が代行された時期がある。
現在は山間の静かな佇まいだが、明治時代に早くも「西田川郡大山町」(昭和三十八年に鶴岡市に編入)として町制が引かれるなど、かねてから「東北の灘」とされた酒どころとして経済力を持った地域であった。
かつてはJR線の他に鶴岡から北大山~善宝寺~湯野浜温泉へと庄内交通の電車線があったのも繁栄がうかがい知れる。

大山小学校の横に小さな水路が流れていて、その傍らに(新民館裏)稲荷神社があるところが大山陣屋の跡地である
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大山小学校にある新民館

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明治時代の貴重な学校建築として、保存されている。

文が増えたので後編に分けます・・・


by enokama | 2018-10-30 20:33 | 庄内藩 | Comments(0)