エノカマの旅の途中

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BSで橋本左内の番組

「西郷どん」ですが、個人的にはあまり馴染みのない(正直知らないだけだけど・・・)斉彬の時代が長くって、見逃しても見逃したままって感じでしたが
やっと寺田屋騒動あたりから、自分のかじってきた時代になってきてテンポもよくなってきたので見やすくなってきました。

しかし薩英戦争ぐらいはしっかりと尺はとってほしかったし、松木&五代の蒸気船の話(自発的捕虜)、中山中左衛門は「側近四人衆」(小松、大久保、堀次郎、中山)できっちりと出してきたんだし(薩英戦争以後に失脚してしまうので)そのあたりの背景もないと、おそらく知らん間に消えているってことになってしまいそうで、ちょっと残念であります。
信吾を含めた寺田屋の二階組の復権(スイカ売り決死隊)も伝聞だけでした。
まだ「篤姫」の時は戦闘シーンはあったし「飛ぶが如く」ではスイカ売りシーンもあったと思うので、西郷メインの話だとこうなってしまうのでしょうかね。

沖永良部での川口雪蓬や土持とのシーンはよかったし、愛加那との再会はドラマにはうってつけの史実でもあるので、鹿児島での戦争を聞いて土持に頼んで船を作って鹿児島に行こうとした話は実話だそうだし描き方はよかったと思います。
疑似大砲?の話やナポレオンを語るシーンもヒントになる実際のエピソードはあったんでしょうかね。


本題に入りますが橋本左内の話であります。
いかにも今回の大河では「ドラマ」だなって描き方がされていたんですが、その代わりにBSの特集で番組がされておりました。
今回も出演された三谷博氏の話も以前に聞きましたので、それも含めて書いてみたいと思います。




三谷氏は幕末に初めて体系的な日本の未来構想を考え、その実現に向け奔走した人物。同じ時期に刑死した吉田松陰とは多くの大名や開明派の幕臣に影響を与え、格が違うとして最大限に評価されてました。
いわゆるそれまでの封建制身分社会で、制外とされる儒者・神官・医者と言った人物がこのような世襲制による地位の不整合に敏感となり、幕末の志士活動にあたるケースも多かった。
外憂やグローバル化と言う時代に世界各国は同盟関係の外交に向かうとしロシアとの同盟を唱え一方でイギリスとは戦争も否定しない(士民に危機感を持たせる。このあたりは久坂あたりとも通じる?)と言う戦略で雄藩大名にも講師として、国家のリーダーとも言うべき将軍も英明な継嗣、従来の幕政のような譜代大名の独占でなく(すでに諸外国との交渉体験もあり、具体的な海防策をすでに講じていた薩摩や水戸を含めた)外様親藩も問わない英明な有力大名の参加、陪臣や庶民も抜擢した能力本位の人事とするなど「新しい新国家ビジョンを描ける」人物として主君の慶永に留まらず有力賢候の懐刀となった。

このビジョンは明治新政府の「五か条の御誓文」と言ったものにもつながるものであり、その10年も前に具体的に提言していたのである。英明な継嗣は徳川斉昭の子・慶喜とし、彼らの勢力は「一橋派」とされ、水野忠央や井伊直弼らの血統でいえば常識的とも言える「紀州派」とやがて対立することとなる。

また慶永も水戸の斉昭の影響が大きいが、左内も上記の(イギリスとの)戦争を国家の興隆の起点とすることは水戸学の影響を受けていて、実は藤田東湖あたりは鎖国を維持すると言うことは考えていなかった。左内は「貿易立国」「智恵の交易」と言ったことも考えていて、以後の福井藩と言った雄藩の政策も大きく影響を受けた。


以下は僕が個人的に書きますが、この左内の活躍のころはやはり先進的(天保期からの海防策)な水戸の教えがあったと思うのですが、攘夷と言うものは単純な打ち払いのイメージではなく「外国の良い部分は取り上げて国力を増し兵を増強して、外国と対等な関係を築く」と言うことで、このあたりは吉田松陰や井伊直弼にしても最近よく言われる「未来攘夷」であって、また「富国強兵」と言う言葉は敗戦後の現代日本では忌み嫌われて「幕末維新批判」なり、山口出身の首相批判につながることもあるのですが、開明派幕臣や東湖、横井小楠、そしてこの左内、以降の慎太郎や龍馬あたりも根っこは同じと思うんですよね。

今回は高橋の源さんが出ておりました。内科医なら進行を見ながら判断するところを(代々外科医で左内の祖父あたりは世代的にもあの華岡青洲の直弟子だっただろうし、父も華岡流で左内は華岡に加えて、あの適塾にも行っている)外科医なら悪いところは切って治すと言った医術の処方で「国家を治す」道を選んだ。ただ相手の痛みに対する感受性の薄さが感じられるとのことで「合理性は通用しない」(動かない)ことが敗北したことにつながったとも言われていました。やたら「リベラル」って言葉を使ってましたが、僕には意味は分かりませんでした。

岩瀬忠震がいわゆる安政五か国条約で「開国通商」を結んだ後に、朝廷の「未勅許」だった状態に対して、松平慶永を京都に派遣して説明し、その際に「慶喜継嗣」に関する内勅を受けると言った巻き返し策もあったが、一橋派が処分を受けたことで実らずに終わった。また結果論かもしれないけど慶喜継嗣に拘り過ぎった面もあって(幕臣の中では井伊には外交は任せられないとして、将軍継嗣は紀州にするものの、慶永に外交を慶喜を後見にとする案もあった)お互いの派が相いれないこともあって、幕府において開国に向けた「統一戦線」と言った事が起こらなかったことも悲劇につながった。

刑死に関しては「思想と行動力」が左内に突出していたからこそ、それを脅威に感じとったものではないかと言うことでした。


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by enokama | 2018-07-08 14:14 | 福井藩 | Comments(0)