村田新八のことはエピソードがそれなりにあって仲間内でもよく話はするんだけども、ただ従来から史料が少ないとされ、本格的な評伝は初めてなんだそうです。
知り合いの方が共著されていて、普段からしっかりとした文章で発信されてきたみなさんなので、さすがにしっかりとした裏付けを取った内容であって、新八自身の今までのイメージや定説の真相ってのが具体的に明らかになって、初めて知ることができました。
維新前、流島になる前には平野国臣、白石正一郎と言った人物と交流を持ち
流島後は土方久元に中岡慎太郎・・・人物から言っても黒田了介にもあったような薩長間の周旋と言う約割が多くあったのでしょう。
(流島時に残された日記は貴重ですね)
中岡慎太郎の日記に新八が出てくる場面があって(則村氏)詳しく解説されておりました。
慶応二年十二月十四日に薩摩では夜通しで赤穂義士伝を回読する会があって、この年も京都の西郷寓居で行われた。
西郷信吾、黒田了助(介・清隆)、村田新八、大山弥助(巌)らの薩藩士の他に
佐川領脱藩の山中敬三(旧名・池大六)、京都へ潜入していて薩藩邸にいた品川弥次郎、井原、清水、河上(後日の日記記述でいずれも長藩士と思われる)そして慎太郎が集まった。
主人(西郷吉之助)は今夜小松太夫の方へ会する故、留守也し。そして翌十五日には慎太郎は「病臥」
この日記に書かれたことは何気なく見ていただけだけど、こう言った意味があったんだなと思わず笑ってしまいました。
慶応三年二月に慎太郎は鹿児島へ行き、薩摩の先進ぶりを見聞した後、その帰りは新八と同行して長崎・平戸周りで大宰府に戻っています。
このあたりの詳細な行動も分析されていて、僕以上に慎太郎の日記を読み解いておられます!
定説としては喜界島から西郷と共に島を離れた経緯や、有名なアコーディオンの真相。
戊辰戦争前夜の出来事から従軍、新政府への出仕から岩倉使節団への参加では、留学に至る経緯や海外生活の内容はイメージからかけ離れた素顔があったんだと感じました。
しっかりと現状で知りえる史料で、その実像に迫られた力作です。
たまに議論になりますが村田新八や黒田、桐野、税所篤あたりの長州との提携の動きってのも多方面にあったかもしれません。
また、このあたりの動きが明らかになっていけばいいなとも思います。