エノカマの旅の途中

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弘道館と諸生党

藩校の弘道館は斉昭の藩政改革の中で疲弊した農村復興と並ぶ大きな事業であった。
その施設が偕楽園と共に水戸の大きな観光資源となって、現代も恩恵をもたらしている。
三の丸の重臣の住まいを移動させた上で設置されて、孔子廟や鹿島神社も分祀され
天保十二年(1841)に仮開館し、正式開館は安政四年(1857)五月であった。

三月は梅まつりの時期であり、偕楽園の臨時駅も開設されて一年中で一番賑やかな時期かもしれない。
なぜ梅なのか? そのこともこちらの碑に書かれている(種梅記碑→こちら
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八卦堂内には弘道館記碑が置かれていて、こちらも空襲の際に堂は焼けたが碑は守られた。
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東日本大震災でも被災したが修復された
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梅の季節
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学生警鐘、こちらは当時の建物
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この梅林のあたりは文館の跡。弘道館戦争でも多くの施設が失われた。
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正門。こちらは現存建物
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弘道館は慶喜向学の地。後ろに番所
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正庁。こちらも現存
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正庁正席の間。弘道館記碑の拓本がある
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藩主が臨席して、文武の大試験が行われた。

諸役会所。有名な文字
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至善堂御座の間。江戸開城のあとに慶喜が謹慎した場所
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慶喜は慶応四年四月十五日から七月十九日まで滞在した。
藩内対立が激しくなり、慶喜は三か月ほどで水戸を去り静岡へと向かった。

弘道館で学んでいだ文武諸生の多くは幕藩体制に忠実であるべきとし、文久以降の過激な行動を伴う尊攘激派を抑える勢力となって、天狗党の一件で水戸における尊攘派が瓦解したあとに、藩政を掌握した市川三左衛門を支える「諸生党」となった。
しかし幕府瓦解ののち、京都にいた天狗党にも近かった本圀寺党が水戸に戻ると天狗党残党と共に復讐とも言うべき内乱となる。
そして戊辰戦争での旧幕府抗戦派として各地を転戦していた諸生党勢力(同行した旧幕兵や越後長岡藩を含む)兵約五百名は会津落城後に体勢を立て直すために水戸に戻り、水戸城を攻撃し弘道館に入り持久戦となって九月二十九日から十月二日にかけた「弘道館戦争」と呼ばれる戦いとなった。
そして文館・武館・医学館・天文台と多彩な施設の大半、また貴重な蔵書の多くが失われてしまった。
こうして水戸藩の人材が一層、枯渇してしまう悲劇となるのだ。

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by enokama | 2018-04-21 17:17 | 歴史連載 | Comments(0)