エノカマの旅の途中

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水戸と徳川御三家と御三卿

茨城県立歴史館は前回も行ったのですが、古代から戦国時代の佐竹氏(徳川時代は秋田へ移封)、水戸徳川家、そして近代へと総合的な資料館であります。
展示としては佐竹氏の戦国時代の推移もよくわかるし、江戸時代の水戸藩の郷校(庶民向けの教育機関)は水戸領民の意識の高さにつながっているし
(このあたりは長州の学校の多さにも通ずるものがある。ただ幕末の動乱期には意識の高い農民が騒乱に参加する割合が多くなって、犠牲数も多くなった)
当然、斉昭(烈公)時代の国防意識の高さや、光圀(義公)以来の「大日本史」の継続した編纂での文化水準と言うのは、よく評価される幕末期の長州藩の動きに対して常に先行するものであって
松平慶永に代表されるような賢公と呼ばれる諸侯や吉田松陰、西郷隆盛や橋本左内と言ったビックネームたちも範としたものでありました。
ほんとに水戸藩をやらなあかんかなと思うんですが、しっかりとわかるには10年ぐらいどっぷりとやらないとダメかなとも感じてます。
のちに「天狗党」の一件にもあるように、水戸藩は酷いことになってしまって人物が枯渇し、埋没してしまい
明治になっての水戸志士らの顕彰も香川敬三や田中光顕あたりに限られたのではないでしょうか。
いわゆる「水戸学」も第二次大戦敗戦後の現代ではなおさら否定され気味になっているようだし、本当に残念に思います。。。

展示の見物としては長州藩の松島剛蔵・桂小五郎と水戸藩の西丸帯刀・住谷寅之介らの間で連帯して行動することを約した「成破の盟約」の書状は
前回もあったので、ほぼ通年展示されているのかもしれません。
二階には幕末水戸藩の重要人物たちのパネルも展示されていて見物であります。




こちらには「一橋徳川家記念室」があって、一橋家の宝物が多数収蔵されています。
(今回は時期もあって雛人形の展示がありました)
その一橋家の展示を多数展示された特別展「一橋徳川家の200年」(終了してます)の展示解説も聞いてきました。

徳川将軍の家光以降の血統が七代将軍の家継で絶えて、八代将軍は紀州徳川家の吉宗となり(以降の紀州藩主は支藩伊予西条藩の系統となる)
以降の徳川将軍は吉宗の系統となる。
吉宗の各種政策がうまく行ったかどうかは、なかなかわかりませんが(この時代こそ大石学はアピールすべきではないか)洋書の輸入あたりを解禁したことは医術等に大きな影響を与えたと同時に、蘭学者の世界へと向ける目となって、水野忠邦の時代に「危険分子」とされて弾圧されるようなことから、徳川幕府を揺るがす面につながったこともあるかもしれない。
一方で吉宗の後継の長子・家重が病弱であったことから、その次子たちに「田安家」「一橋家」「清水家」と御三卿として立家させ、病弱だった家重の補佐に回った弟である一橋宗尹(むねただ)、次代治済(はるさだ)は実力を発揮し、家重の次代である十代将軍・家治に後嗣がなく、その後は一橋家から十一代将軍・家斉となってその在位50年と徳川将軍家は盤石となるのである。

一橋家の系統は家斉を通じて御三家・親藩・外様大名と広がり 、紀州・尾張も家斉の系統となる。
田安家からの養子では越前の松平慶永(治済の孫)が有名である。
水戸徳川家はこうして一橋家の影響を受ける大名が多かった中で、水戸の男系は幕末まで途切れなかった。
ただ天保期に八代藩主・斉脩が世継ぎができずに三十三歳で早逝した際には、折からの財政危機もあって幕府からの援助を期待して、清水家から養子を迎えようとする動きも出ていた。
その時の擁立運動では代々の水戸血統を重視する、部屋住みだった斉脩の弟・敬三郎(斉昭)を推す彰考館の青山拙斎・会沢正志斎、藤田幽谷の門下生ら藤田東湖・戸田忠敞・金子孫三郎と言った人物が行動を起こし、のちに斉脩の遺言が見つかったことから、継嗣はこの時三十歳だった斉昭となった。
このことで一橋の血が入らないと言う徳川一門・御三家では珍しい形となり、有栖川家から正室を迎えるなど朝廷との結びつきも得て、側室を含め多くの子を成した斉昭で逆に水戸の血は広がりを見せ両池田家、川越・浜田の松平家に代表されるような養子となり、幕末に影響力を及ぼしている。
(高須松平家はすでに水戸の系統であったが幕末には尾張・会津・桑名の藩主が出ている。その彼らの兄弟である慶勝の弟で次代尾張藩主・茂栄は隠居後に明治になってから一橋家の慶喜の次の当主となっている)
斉昭はこの擁立運動で清水派だった門閥派を退け、自身の擁立派だった藤田東湖・戸田忠敞を中心に天保の改革を行い、疲弊した農村復興から藩校の弘道館、各地に領民の教育機関としての郷校と教育の充実を軸に一定の成果を収めた。
庶民の利用も許した偕楽園の創設や、折からの異国船の出没での海防対策で軍備増強と言った硬軟交えた政策も行った。

大御所家斉の跡は天保期の水野忠邦の改革となり、その水野にも斉昭の改革の影響があったと言うが「上知令」「株仲間の解散」と言った政策では「重商主義」経済へと移行しつつあった紀州徳川家を始めとする諸藩からの反発も起き、やがて水野は失脚。
そのころ水戸藩は従来から神道を重んじた水戸学の影響で、斉昭は「廃仏毀釈」を進め神仏分離や無住寺等の理由で二百数寺を廃止していた。また梵鐘は大砲の鋳造に充てるため多くが鋳潰された。
軍備増強や領民支配の根幹であった寺院檀家制度の否定とも言うべき動きは幕府が警戒する動きともなり、このことが主因となって水戸藩保守派は幕府の反斉昭勢力と結んで、次代の阿部正弘にも警戒された斉昭は失脚。戸田や藤田も蟄居となり、水戸の天保の改革も挫折してしまう。

阿部正弘の時代となり一旦は影響力を失っていた斉昭であったが、ペリー来航以降に一定の海防政策等の藩政改革を果たしていた斉昭は「幕政参与」となり復権し、その「水戸学」の広がりとともに、開国の一連の騒動の中、後に従来の譜代大名による幕政から御三家・親藩や外様大名も発言力を持つようになった勢力の中心となる。
そこで開国問題とも絡んだ将軍継嗣問題となり、譜代藩や紀州家との対立となっていくのである。
そんな中で、それまで水戸徳川家との所縁のなかった一橋家に七郎麿(慶喜)が養子になって継ぐこととなり、その尽力には阿部正弘があたっています(今回はその書簡も展示されていた)
斉昭の影響力が戻った天保期水戸藩の改革は那珂湊での反射炉(稼働するが、のちの諸生党と天狗党の那珂湊戦争で破壊)建設、大艦建造の禁が解かれた西洋式帆船旭日丸建造、農兵の取り立てとより具体的な軍制改革に取り組んでいる。


展示では宗尹の肖像画があって髭ずらと言う珍しいものでした。
将軍家伝来の目安箱の鍵ってのもありました。
吉宗、宗尹、治済、家斉らの書や肖像画、書簡から明治時代の資料まで展示がしてありました。


このあと水戸徳川家の収蔵施設である「徳川ミュージアム」に向かったんですが(歩いて25分ぐらいかかった)
折からの「刀剣ブーム」と言うことで、土日は入場に行列ができている現状で断念してしまいました。
近くの梅はきれいでしたね。
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御三家の史料館では名古屋に徳川美術館があり、充実した展示となっています。
しかしながら明治になってからの紀州徳川家はうまく財産管理ができなくって、宝物がことごとく散逸すると言う事態となって
和歌山には徳川の史料館ってのはできなかったんですよね。
今年も一度行ったけど、博物館とお城を見たらあとは見るとこがない・・・って状態で。
空襲で和歌山城が姫路のように奇跡的に残っていたら、そして紀州徳川家の宝物がまだ和歌山に残っていたらと思うとほんと残念に思います。

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by enokama | 2018-04-15 23:02 | 歴史連載 | Comments(0)