加治将一が言う「慎太郎が龍馬暗殺犯」ではない真実
大政奉還は端的に言えば慶喜が政権を朝廷に返すって言っただけであり、会桑勢力も幕府の組織もそのまま、大坂開市神戸開港も幕府担当奉行が引き続いてやっており、外交も慶喜が握ったままです。
十一月の近江屋事件のころは、その諸藩の出方待ちで慎太郎も自身の陸援隊の強化、在京薩摩藩士や岩倉具視を通じた情報交換ぐらいしかできないし、龍馬はこの時間を利用して在京土佐藩士らと新しい職制を構想していた。この時の持ち場でそれぞれの行動を取っていただけで、王政復古からその後に予想される武力衝突については、この時の龍馬の上洛前に長崎から土佐にライフル銃を持ち込んでいたように「不可避」との認識は共有していたかと思います。
強いて言えば「慶喜の処遇」(新政府で役職を与えるか否か)と言った点での二人の対立であり、このあたりが福岡孝弟の回顧にあったものとも思われます(このあたりは二人の志士活動での体験からの違い。原稿に詳しく書きました)。大きな方向では対立点はなく、一昔前の個人プレイやテロ多発の時期でなく藩単位で動いている情勢の中で仲間内で殺し合いをするって理由はあるんでしょうか。
龍馬がいたから薩長芸の出兵とか王政復古後の各藩主や後藤や中根雪江、松根図書と言った側近の活動に影響を与えたのか?大久保や西郷の行動に脅威を与える存在だったのか。ifで考えても藩単位で動いている中に割り込むようなことはできなかったでしょう。
方向性で言えば、慶喜は「王政復古政変」で尾越土や薩摩とも大きいくくりで同じ方向に向いていたとも言えるかもしれない。家近さんも書いているけど、この時点で京都での任を解かれた会桑を帰国させて離れることも一つの考えだったと思う。そうしてれば「討幕」ってこともなく、年が明けてから「罷免されたはずの会桑と同調する動き」として大久保に付け入れられることもなく、幕府主戦派の小栗忠順も江戸で「薩摩藩邸焼き討ち事件」に積極的に関与することで上方での戦争をけしかけることもなかったかと。
まあ今回、慎太郎の文章をまとめたかったのもこのあたりをはっきりさせたかったことが一番の理由ですがね。