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エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎の京都往来~慶応元年五月・幻となった会談

中岡慎太郎年表→こちら

慎太郎は四月三十日に出石から帰還した桂との馬関での対談後、再度上洛。五月十五日に京都に入る。
西郷らとは行き違いになったが「長州再征」論の高まりと「薩長提携」へと薩摩藩士がさらに前向きな姿勢と
なったことを土方に聞いたであろう。



二十五日に慎太郎と土方久元は、薩摩藩重役で家老である岩下方平の帰国に合わせて、京都を立ち
淀川を下って、大坂の薩摩藩濱屋敷に着泊する。
至近にあった長州屋敷は朝敵となったことで焼かれてしまっていたが、大坂の町人らがこの焼跡にある柳樹に参拝する者が相次ぐことを聞いている(『回天実記』)
大坂安治川口から薩摩の蒸気船・胡蝶丸に乗って西下する。土方は閏五月二日、小倉領田野浦にて下船する。
薩船にて長州領へ直接寄港するのは、まだ薩長間のわだかまりがあって憚られたからである。
馬関へ渡り、早くから「薩長提携」を唱えた長府藩士らに京都での情勢を伝えた後、五日には来関していた
坂本龍馬と会い「次回の西郷上洛の途次に馬関に立ち寄り、木戸との会談を行う」方針を伝える。土方は
龍馬に後事を託し、五卿のいる大宰府に京都での情勢を伝えるために向かった。

呼子、長崎を経て慎太郎を乗せた船は六日になって鹿児島に到着する。十五日には西郷・岩下らと共に
上洛する船で同行する。十八日には豊後佐賀関(大島屋泊)に着くが、そこで西郷らは上洛を急かす
大久保の書簡に接し(「長州再征」を巡る朝議へ対する対策を優先するとして)馬関への立ち寄りを止めて
直行することとし太平洋側の進路を取り、船は急いで東へと向かった。
慎太郎は事の顛末を伝えるため、二十日になって佐賀関から漁船を借りて馬関に向かった。
二十一日夜下関着。桂が激怒した話はよく聞かれることである。この後、薩摩藩の下にあった
坂本龍馬の長崎の社中が「薩摩名義で武器を買い、長州に与える」役割を果たし「武備恭順」方針となった
長州を後支えすることで(社中にいた近藤長次郎の活躍が目覚ましい)さらなる気運を高めることとなる。

事実、幕府では諸藩への人事も出て「長州再征」への動きが具体化し、戦力も大坂に駐留しつつあった。
この時点での西郷の動きは致し方ないものである(長州目線で「すっぽかし」って評価になっている)
ただ幕府にはいくつもの諸問題が起き、この年の間に「長州再征」は実現せず、大坂駐留兵の士気低下や
駐留の長期化における経済的な疲弊も出てきていた。
その間、長州では薩摩の協力もあって兵制改革も進み、西国諸藩もこうした幕府の動きに疑念を以て
いざ「征長」となると積極的な参加をせず、幕府側は敗れるべきして敗れたとも言えるかもしれない。


ちなみに慎太郎と龍馬はこの会談ののち、京都へと向かっている。
この両人が一定期間の行動を共にすることは大変、珍しいことだったかと思う。
途中まで馬関から海路をとったが、途中で濃霧風波のために陸路をとり
慎太郎の日記では 六月十四日「備前西大寺に宿す」と記されている。
ちなみにこのことは最近、岡山で話題になりました(僕の知り合いの方が備前西大寺を訪ねられたのが
きっかけでした)

(「西大寺観音院」さんのFBでも紹介されています)
「当寺に坂本龍馬と中岡慎太郎が宿泊?!」
先日、坂本龍馬の足跡を研究している方が来訪され
「西大寺へ坂本龍馬と中岡慎太郎が宿泊していますが、何か記録がありますか?」と尋ねられました。
降って沸いたような話に驚きを隠せませんでしたが、それは中岡慎太郎の日記「海西雑記」に
記されていたのです。
『慶応元年6月14日(西暦8月5日)坂本龍馬、中岡慎太郎は備前西大寺に到着し、同14日
備前西大寺に宿す』

慶応元年(1865)5月21日 、下関で坂本龍馬は長州の桂小五郎と西郷隆盛との薩長和解の
会談を試みたものの実現しませんでした。
その後、龍馬は西郷説得のため、中岡慎太郎とともに下関を京都に向けて出発し、
慶応2(1866)年1月22日、京都において坂本龍馬立会いの下、かの有名な「薩長同盟」が
締結されました。

二人の当山宿泊はこの、下関から京都への道中の事。
翌日には藤井宿(現岡山市東区藤井)にて備前藩士津田彦左衛門・小松原源治と会談したと
記されており、
これ以降1ケ月ほど、龍馬と中岡慎太郎の足跡を示す記録はないそうです。

そこで早速、西大寺観音院では「慎太郎の間」「龍馬の間」を作られたそうです(嬉)

書かれている通り、慎太郎の「海西雑紀」は藤井駅までで終わっており、上洛中の具体的な出来事は
知ることができず、七月十九日に慎太郎に兄事した田中顕助とともに京都を発足し
坂本龍馬が伏見まで見送ったとぐらいしかわかっていない。
七月二十八日に馬関に入り、白石正一郎宅で一泊。このころ、木戸孝允に送った書簡では
勤王派が弾圧されつつあった筑前藩の窮状を憂い、次回の上洛で「是非西郷辺りえ論じ、決着相付帰り
可申と相含申候」と伝えている。ちなみに今度の上洛の路銀を高杉晋作に借りたことを伝えている。
そして八月十一日に再度、入京しているが、そのあたりの具体的な動きはわかっていない。
九月三日に馬関着。
この地で故郷に向けた書簡があって、この中で「外国行もやまりに相成」と洋行の希望があったが
実現しなかったことを残念がった内容が残っている。

by enokama | 2015-04-02 17:37 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)