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エノカマの旅の途中

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文久3年・関門海峡で起きた長崎丸事件 その1

関門海峡においての長州藩による「攘夷砲撃」は一旦、外国船の報復攻撃や
八一八の政変で一旦は収まったように見えていたが(→こちらこちら
この文久三年の暮れにも事件が起きている。



文久三(1863)年十二月二十四日五ッ時(夜8時)ごろ、馬関(関門)海峡に一隻の蒸気船が通りかかった。
そこへ長州側の前田砲台から突然、砲撃が始まった。
やがてその船は沈没し、68名の乗務員のうち28名が寒中の海に投げ出されるなどして溺死する
大惨事となった。
この船は幕府・長崎製鉄所所有「長崎丸」で、前年の薩英戦争で失った船団の補充として薩摩藩が
借りていたものであった。
二十二日に兵庫を出航し、1846年製造の老朽船の修理を行う名目のため長崎に向かっていたものであった。
またそのころ、すでに経済的に強く薩摩と結びついていた芸州の繰綿を中心とした物産を御手洗港で
積み込んでいたと言う。
「薩藩海軍史」(中巻)に、この事件についての各種の史料が引用されているが
小倉領田ノ浦(田野浦)沖を航行中の同船を砲撃し沈没させたとする記述や
物産を長崎に持って行って、海外貿易を盛んに行う薩摩への攘夷行動の一つで「異国船と誤認した」と
して砲撃されたとするのが、一般的に知られた話かと思う。

ただ、田野浦にいる船舶(下地図・オレンジ印)に関しては以前に書いたよう(→こちらこちら)に
「砲弾不達の安全圏」となるので壇ノ浦付近の一番狭い海域での航行でないと砲弾は届かない訳で
この件に関しては薩摩側の記述で、乗組士官・大原林左衛門は島津久光への報告で
「砲弾は不中。だが機関の老朽もあって蒸気釜で失火し、繰綿に延焼した」とするが
下関詰唐物取締・土持平八の聞き取り報告によれば、前田砲台沖(赤印)より長崎丸は急ぎ
(田野浦から見て裏側にある)白野江青浜沖付近(青印)で退避中に「右の内船屋形へ一発。船の水涯へ
掛け二発」の受けた砲弾の影響の可能性もあるとしている。
「薩藩海軍史」では船長格である大原が「乗頭として全責任を負い殉職すべきが、公金を真っ先に格護し
水夫頭と共に率先して退去した」とし、その人格を疑っている(他の士官は悉く殉職)
そして、いくつかの薩摩の報告書に見て取れるのは「長州の砲台より砲撃を受け、ただちに沈没したわけでは
なく、小倉領寄りの海域に退避する最中、その砲撃の影響も起因して沈没した」とされている。
(ただ「失火」との表現もあり、着弾の影響とは言えない可能性も)

また当夜は風波強く、雪も舞う中で見通しが悪かったといい
この年五月からの長州攘夷派の一連の砲撃の影響もあり、この海峡を航行する薩摩藩の船は
昼間は旗章、夜間は提灯を掲げ(振って)目印を出して、長州側からは砲撃しないこととしていた。
ただ当時の長州側の指揮者の談によると見通しの悪い中、砲弾を撃ちかけると薩摩船から盛んに提灯の
灯火が振られたが(逆に目印にするように)構わずに撃ち続けたとも言い「薩摩船と確信して」の
可能性もないとは言い切れないかもしれない。
ただ翌日になって、明らかに「薩摩船沈没」の事実が明らかになると
「無沙汰にて砲台前に乗り付け、異国船と思い砲撃したが薩摩船であったのか?」との尋問書を
清水清太郎・国司信濃・福原越後・浦靭負と言った藩重役連名で薩摩に送っており
文面は例のごとくの態度であるが、長州藩側ではかなりの危機感を持っていたのだろうと思われる。
Commented by hayato at 2018-09-21 11:10 x
乗船の薩摩藩士は長州砲台が昼に薩摩船に対して砲撃を行ってきたので、わざわざ長崎丸から下船して長州側に撃たないように抗議していたはずですが、夜になると今度は丸に十字の提灯をめがけて砲撃を行っており、長州側が意図的に撃ってきたのは間違い無いと思います。
先立つ京都での政変で長州は公武合体派の薩摩等から京都を追い出されていますから、長州側には恨みがそうとう有ったのでしょうね。
Commented by enokama at 2018-09-29 21:29
薩藩海軍史では事件の真相を全体的にいくつかの説を並べて紹介することが多いので(生麦事件や庄内藩の薩摩藩邸焼討事件)これとは決めつけてないのですが、おそらく意図的にやったのは間違いないと思います。
by enokama | 2015-01-25 22:33 | 薩摩藩 | Comments(2)