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エノカマの旅の途中

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水戸藩本圀寺党と陸援隊のつながり(妙恵会総墓所~本圀寺塔頭合同墓地)

本圀寺のネタ、もう一本です。実は二本とも中岡慎太郎とも関係があるものです。
『中岡慎太郎の行動から見た幕末維新』で新たに分かった分を含めて書き進めております。そちらでもご覧ください)

徳川慶喜の在京は文久三年(1864)1月5日から(文久三年夏には一旦、江戸へ戻っている)
慶応三年(1867)十二月「王政復古クーデター」後、大坂に移るまで約四年。
末期は「最後の将軍」として国事多難な政局を、江戸には戻らないまま行っている。

最初の上洛に一橋家として独自の兵力を持たない慶喜は武田耕雲斎らを頼み水戸藩士が随従し、その中にはのちに懐刀となるかつては尊攘激派でもあった原市之進の名も見られる。
二月には水戸藩主・慶篤が将軍・家茂の上洛に続いて、この時には藩士千名が随従し、宿舎には本圀寺が当てられた。
京都の秩序は乱れ、諸侯は直接公家たちと結びつき、過激尊攘派が跋扈する渦の中に入っていくのである。
そして随従した水戸藩士らも藤田小四郎、山国兵部に代表されるように尊攘派の輪に入っていってしまうのだ。
水戸では諸生党(佐幕派)と天狗党(尊攘派)の対立(その両党内部でも勢力争いが会って藩は大いに乱れる)があったが京都における駐留勢力は天狗党に近い尊攘勢力の強い「本圀寺党」と呼ばれ、長く続く慶喜の京都滞在の後盾として支え、幕府が倒れた後の水戸藩政にも大きく影響を及ぼすこととなる。
将軍の在京は朝廷の攘夷圧力もあって長引くこととなり、空白となる江戸へは「将軍名代」として慶篤が東下し、本圀寺には弱冠十五歳の弟・昭訓が「藩主名代」として残ることとなる。

慶喜と将軍・家茂もやがて東下するが、朝廷に約束した「横浜鎖港」に関して、反対する幕府実務官僚や生麦事件の賠償金を巡って、幕政は大混乱となる。
そう言った中で、京都では「八一八政変」が起こる。




十一月には京都からの長州勢を中心とする「過激攘夷派」公卿の追放を受け「公武合体」を旗印に挙国一致と「横浜鎖港」の経過を以て、将軍の再上洛が決まり
慶喜は十月二十六日、築地の軍艦操練所より蟠龍丸に乗って出帆する。
講武所の兵二百余名、一橋家の床几廻若干名が随従し(彼らは陸路で先発)兵庫・大坂を経由して十一月二十六日、入京する。
その直前、在京の原市之進ら水戸藩士を束ねていた昭訓は二十三日になって若くして病没していた(長楽寺→墓所
そして、彼らも慶喜の指揮下に入ることとなる。

元治元年「参与会議」を経て、薩摩藩ら諸侯勢力を退けた後、慶喜は三月に十五日に朝臣色の強い「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」となり、京都所司代「桑名」・京都守護職「会津」とともに、いわゆる「一会桑」政権となる。
慶喜は海防と禁裏守衛の責務を果たすため、一橋家兵力の増強を図り、前年に来た講武所の兵を「一番床几隊」とし、本圀寺党から選抜して酒泉彦太郎ら約百名で「二番床几隊」も編制した。
そして五月には水戸の国許から郷士・神官ら約二百名「遊撃隊」が、すでに西国遊歴があって各地の尊攘志士の中でも知られていた住谷寅之介に率いられて上洛する。
ただあくまで護衛の目的で寄せ集めの雇兵もあり、鉄砲隊も幕府からの客兵で有事の際に出征できないということで
六月に平岡円四郎の命で渋沢篤太夫(栄一)らが関東の志士を受け入るために東下しかつての同志らを勧誘しようとしたが
すでに水戸藩天狗党の挙兵(三月・長州との呼応目的ともされる。慶喜は武田の上洛も望んでいたが藩内混乱のため無理となった)があって、その場に馳せ参じたものも多く、五六十名程度に留まった。
引き続き栄一は慶応年間にかけて各地の一橋領内を回って、青年四百名余りを招集した。
栄一の不在時の六月十六日に平岡円四郎の暗殺という痛恨事があったが刺客の江幡定彦と林忠五郎は二番床几隊に所属しており、本当に身内に暗殺されているのである。
ちなみに「遊撃隊宿割」と言う史料が残っているが(『大場伊三郎 京都本圀寺風雲録』)本圀寺北側の大宮松原西入ルの五ヶ寺で、いずれの寺院が松原通沿い(南側)に現在も残っている(正法寺(院)・長圓寺・中堂寺・西照寺・法泉(宣)寺)
住谷寅之介は正法院に滞在していた。

慶喜指揮下の諸隊は禁門の変に出動し、諸門の防御及び禁裏参内の際の守衛となった。
ただ水戸藩では天狗党の動きがあり藩内対立が激化、のちに武田耕雲斎が首領に担ぎ出される騒ぎとなり、さらなる藩からの増強はままならず「二番床几隊」は、禁門の変後の八月に守衛を免じられ、藩地に戻されたという。

この後、慶応年間の本圀寺党の動静の資料がまだ探しだせてないので、また見つけたら書きますが、住谷寅之介は慶応三年六月に土佐藩士によって暗殺されていて(墓所は霊山墓地)酒泉彦太郎は近江屋事件(慶応三年十一月)後に刺客を追う陸援隊の水戸脱藩士らに追われ斬りつけられた(ただ切り抜けることができた)
維新後の諸生党を退けた後の水戸藩政では本圀寺党関連の人物が水戸藩政の中心となって、在京家老だった鈴木縫殿は大参事となり、酒泉も軍事担当の重役となっている。
また中岡慎太郎の記録では、文久二年暮れの水戸行きですでに住谷(かつて間崎哲馬と交流があった)とは会っていたし、慶応二年十一月には住谷、酒泉、山口徳之進(正定)とも京都で会ったことが日記に書かれていて、本圀寺の水戸藩士との接触はあったようだ。
鯉沼伊織(香川敬三)は遊撃隊にいた神官の養子で岩倉具視の信任を得て、のち陸援隊に入り
福田千太郎(のち中川忠純)という人物も香川同様に陸援隊に入っている(他に変名あり、陸援隊の時は中川秀之助と称した)
本圀寺党は慶喜の下で京都に駐留するも「攘夷から開国」「最後の将軍」と言った当初とは違った態度を取るようになって、元来総本山であったはずの「尊王」よりも佐幕色が強くなって離反する藩士の続出(平岡円四郎や原市之進の暗殺もあった)や住谷や酒泉の遭難にもつながっているのではないだろうか。
陸援隊の出身別でも水戸(常陸)はかなり多いのだが、おそらく大半がこの本圀寺党からの離脱者で受け皿になっていたと推測される。
ただ本圀寺党での名と陸援隊での名が一致する人物がまったくいないので、変名を使っていたのだろうか。
陸援隊に多かった「三河出身者」の謎も含めて、手がかりが見つからないかと思っている。


最後に前記事の鳥取藩士らの墓もある妙恵会総墓所(本圀寺塔頭合同墓地)について。
この地は戦国時代に世をかき回した松永久秀の屋敷跡で、本圀寺塔頭の檀徒であったことから屋敷跡を寄付した。
水戸藩本圀寺党と陸援隊のつながり(妙恵会総墓所~本圀寺塔頭合同墓地)_f0010195_9212958.jpg

松永久秀墓所
水戸藩本圀寺党と陸援隊のつながり(妙恵会総墓所~本圀寺塔頭合同墓地)_f0010195_9211158.jpg

水戸藩の関口泰次郎
水戸藩本圀寺党と陸援隊のつながり(妙恵会総墓所~本圀寺塔頭合同墓地)_f0010195_928575.jpg
本圀寺に詰めた泰次郎は長州藩士と結び、いわゆる「七卿落ち」で長州まで走る。
平野国臣の影響を受け「生野の変」に参加。
慶応元年に京都に戻り謹慎となるが、十月にチフス(『覚書 水戸藩の幕末』)に罹り亡くなる。


新道無念流の剣客で知られた金子健四郎の墓
水戸藩本圀寺党と陸援隊のつながり(妙恵会総墓所~本圀寺塔頭合同墓地)_f0010195_9255790.jpg
水戸藩に抱えられて水戸で道場を開いていた、弟子に伊東甲子太郎がいる。元治元年四月十日没
となりは金子徳輝(つながりはわからない)の墓で明治三十三年没。

Commented by TU at 2015-01-11 18:01 x
初めまして、本圀寺党について調べているものです。関口泰次郎の縁者にあたるのですが、本圀寺党を脱して、陸援隊に加わった水戸の人々にも興味があります。鷲尾卿の高野山挙兵に加わったものと、陸援隊のメンバーは重複しており、挙兵以前の慶応三年八月に作成された、「有喩新盟」(鷲尾隆聚等血盟書、東京大学史料編纂所)と陸援隊名簿に書かれている諱を対照させることで変名前の名を明らかにすることができます。多くが軍曹に選ばれているため、「軍曹名籍録」(防衛省防衛研究所蔵、アジア歴史資料データーベースで閲覧可能)でも変名の傍証がとれる者もいますね。約10名に関しては明らかになっています。「維新日乗纂輯三」の「酒泉直滞京日記」に名前が出るものが殆どですので、確認が取れると思います。神官や郷士に相当するものが多いようですね。

変名前→変名後
鯉沼伊織武明→香川敬三広安 
福田千太郎→中川秀之助(秀五郎)忠澄
掛札勇之介→岩崎誠之介為成
鯉渕誠三郎→淵川忠之助親則
西野六郎→平井喜代三堯義
菊池藤之進(右仲)→芳野昇太郎親義
飯村彦一郎→飯田種彦信弘
川邊春次郎→山田小二郎彝
仲田雄蔵→田崎敬助正勝
服部健之介もしくは前野松次郎→中野幸助義直
(笠間)黒沢鉄太郎→早川仙次郎

松岡新七郎と三浦清太郎は本名が不明です。小室左馬は赤報隊の小室左門その人か、縁者だと思われますが……。田辺健介も不明ですが、服部、前野のどちらかが、該当するのではないかと考えています。何分茨城での調査がまだなので、詳しいことはいえませんが、ご了承下さい。
岩崎に関しては飛騨春秋の531、532号に「掛札勇之介と本圀寺組の同志」として、詳しく書かれていますが、出典が明らかでない史料が多いです。著者の方とは電話で何度か交流がありましたが、色々ありまして現在は疎遠にしております。著者は2名を除いて出生地を明らかにしたとは仰っておられましたが、これも根拠は教えて貰えず、不明点は多いですが、取り敢えずお伝えしておきます。
Commented by TU at 2015-01-11 18:05 x
追伸
「遊撃隊宿割」の出典を教えて頂ければ有り難いです。
Commented by TU at 2015-01-12 00:20 x
訂正
連投失礼します。小室左馬→小宅左馬でした。
小室左門かと書きましたが、「軍曹名籍録」に出てくる小宅敬太郎と同一人物の可能性の方が高いですね。
Commented by enokama at 2015-01-13 01:10
TUさん。コメントありがとうございます!
本圀寺党と陸援隊の水戸出身者名の対比はその後、調べられていなかったのですが、やはりそれなりの人数がいたということ…資料のご紹介いただきありがとうございました。
本記事の引用は「大場伊三郎 京都本圀寺風雲録」と言うもので、本圀寺詰だった藩士の残した日記から書かれたもので、ごく最近の出版です。非売品っぽいんですが、私は京都大学の付属図書館にて読み、一部分コピーしてきたものです。
そちらにも「神官」「郷士」の多さってものも触れられていました。
by enokama | 2014-11-20 23:41 | 水戸藩と天狗党 | Comments(4)