水戸藩本圀寺党と陸援隊のつながり(妙恵会総墓所~本圀寺塔頭合同墓地)
徳川慶喜の在京は文久三年(1864)1月5日から(文久三年夏には一旦、江戸へ戻っている)
慶応三年(1867)十二月「王政復古クーデター」後、大坂に移るまで約四年。
末期は「最後の将軍」として国事多難な政局を、江戸には戻らないまま行っている。
最初の上洛に一橋家として独自の兵力を持たない慶喜は武田耕雲斎らを頼み水戸藩士が随従し、その中にはのちに懐刀となるかつては尊攘激派でもあった原市之進の名も見られる。
将軍の在京は朝廷の攘夷圧力もあって長引くこととなり、空白となる江戸へは「将軍名代」として慶篤が東下し、本圀寺には弱冠十五歳の弟・昭訓が「藩主名代」として残ることとなる。
慶喜と将軍・家茂もやがて東下するが、朝廷に約束した「横浜鎖港」に関して、反対する幕府実務官僚や生麦事件の賠償金を巡って、幕政は大混乱となる。
十一月には京都からの長州勢を中心とする「過激攘夷派」公卿の追放を受け「公武合体」を旗印に挙国一致と「横浜鎖港」の経過を以て、将軍の再上洛が決まり
慶喜は十月二十六日、築地の軍艦操練所より蟠龍丸に乗って出帆する。
講武所の兵二百余名、一橋家の床几廻若干名が随従し(彼らは陸路で先発)兵庫・大坂を経由して十一月二十六日、入京する。
その直前、在京の原市之進ら水戸藩士を束ねていた昭訓は二十三日になって若くして病没していた(長楽寺→墓所)
そして、彼らも慶喜の指揮下に入ることとなる。
元治元年「参与会議」を経て、薩摩藩ら諸侯勢力を退けた後、慶喜は三月に十五日に朝臣色の強い「禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮」となり、京都所司代「桑名」・京都守護職「会津」とともに、いわゆる「一会桑」政権となる。
慶喜は海防と禁裏守衛の責務を果たすため、一橋家兵力の増強を図り、前年に来た講武所の兵を「一番床几隊」とし、本圀寺党から選抜して酒泉彦太郎ら約百名で「二番床几隊」も編制した。
慶喜指揮下の諸隊は禁門の変に出動し、諸門の防御及び禁裏参内の際の守衛となった。
ただ水戸藩では天狗党の動きがあり藩内対立が激化、のちに武田耕雲斎が首領に担ぎ出される騒ぎとなり、さらなる藩からの増強はままならず「二番床几隊」は、禁門の変後の八月に守衛を免じられ、藩地に戻されたという。
この後、慶応年間の本圀寺党の動静の資料がまだ探しだせてないので、また見つけたら書きますが、住谷寅之介は慶応三年六月に土佐藩士によって暗殺されていて(墓所は霊山墓地)酒泉彦太郎は近江屋事件(慶応三年十一月)後に刺客を追う陸援隊の水戸脱藩士らに追われ斬りつけられた(ただ切り抜けることができた)
また中岡慎太郎の記録では、文久二年暮れの水戸行きですでに住谷(かつて間崎哲馬と交流があった)とは会っていたし、慶応二年十一月には住谷、酒泉、山口徳之進(正定)とも京都で会ったことが日記に書かれていて、本圀寺の水戸藩士との接触はあったようだ。
鯉沼伊織(香川敬三)は遊撃隊にいた神官の養子で岩倉具視の信任を得て、のち陸援隊に入り
福田千太郎(のち中川忠純)という人物も香川同様に陸援隊に入っている(他に変名あり、陸援隊の時は中川秀之助と称した)
本圀寺党は慶喜の下で京都に駐留するも「攘夷から開国」「最後の将軍」と言った当初とは違った態度を取るようになって、元来総本山であったはずの「尊王」よりも佐幕色が強くなって離反する藩士の続出(平岡円四郎や原市之進の暗殺もあった)や住谷や酒泉の遭難にもつながっているのではないだろうか。
陸援隊の出身別でも水戸(常陸)はかなり多いのだが、おそらく大半がこの本圀寺党からの離脱者で受け皿になっていたと推測される。
ただ本圀寺党での名と陸援隊での名が一致する人物がまったくいないので、変名を使っていたのだろうか。
陸援隊に多かった「三河出身者」の謎も含めて、手がかりが見つからないかと思っている。
最後に前記事の鳥取藩士らの墓もある妙恵会総墓所(本圀寺塔頭合同墓地)について。
この地は戦国時代に世をかき回した松永久秀の屋敷跡で、本圀寺塔頭の檀徒であったことから屋敷跡を寄付した。
松永久秀墓所
水戸藩の関口泰次郎
新道無念流の剣客で知られた金子健四郎の墓
変名前→変名後
鯉沼伊織武明→香川敬三広安
福田千太郎→中川秀之助(秀五郎)忠澄
掛札勇之介→岩崎誠之介為成
鯉渕誠三郎→淵川忠之助親則
西野六郎→平井喜代三堯義
菊池藤之進(右仲)→芳野昇太郎親義
飯村彦一郎→飯田種彦信弘
川邊春次郎→山田小二郎彝
仲田雄蔵→田崎敬助正勝
服部健之介もしくは前野松次郎→中野幸助義直
(笠間)黒沢鉄太郎→早川仙次郎
松岡新七郎と三浦清太郎は本名が不明です。小室左馬は赤報隊の小室左門その人か、縁者だと思われますが……。田辺健介も不明ですが、服部、前野のどちらかが、該当するのではないかと考えています。何分茨城での調査がまだなので、詳しいことはいえませんが、ご了承下さい。
岩崎に関しては飛騨春秋の531、532号に「掛札勇之介と本圀寺組の同志」として、詳しく書かれていますが、出典が明らかでない史料が多いです。著者の方とは電話で何度か交流がありましたが、色々ありまして現在は疎遠にしております。著者は2名を除いて出生地を明らかにしたとは仰っておられましたが、これも根拠は教えて貰えず、不明点は多いですが、取り敢えずお伝えしておきます。
「遊撃隊宿割」の出典を教えて頂ければ有り難いです。
本圀寺党と陸援隊の水戸出身者名の対比はその後、調べられていなかったのですが、やはりそれなりの人数がいたということ…資料のご紹介いただきありがとうございました。
本記事の引用は「大場伊三郎 京都本圀寺風雲録」と言うもので、本圀寺詰だった藩士の残した日記から書かれたもので、ごく最近の出版です。非売品っぽいんですが、私は京都大学の付属図書館にて読み、一部分コピーしてきたものです。
そちらにも「神官」「郷士」の多さってものも触れられていました。