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エノカマの旅の途中

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必見|中岡慎太郎館の特別展示2014(開館20周年記念・第二幕)8月25日まで

お盆休みも終わりましたが、今年も丸々5日間休みとなって
京都に行ったり、後半の16~17日は高知から琴平へと回ってきました。
結構、収穫は多かったので順次、記事をアップして行きます。。。

こちらでもご案内しましたが
北川村にある中岡慎太郎館に久しぶりに行ってきました!
展示も「期待してください」ってことを聞いていたことと、学芸員さんの講演もあったので
16日朝にうまくバスが取ることができ、いい時期に行くことができました。
必見|中岡慎太郎館の特別展示2014(開館20周年記念・第二幕)8月25日まで_f0010195_618895.jpg




開館20周年展示の第二幕と言うことで、時期は「禁門の変」の元治元年のころです。
中岡慎太郎は前年に長洲へ向け脱藩し、このころは再三京都に潜入し、京都の情勢を探り
むしろ慶喜を応援して、薩摩の島津久光を暗殺しようと動いていた(→こちら
「池田屋事件」は、ちょうど長州滞在中であって難を逃れ「禁門の変」では負傷するも
長州に戻ることができて再起を図り、第一次征長での西国諸藩における「長州寛典」の動きには
福岡藩士や薩摩の西郷との対面など、次の展開につながる年でもありました。

(以下は講演でのお話とレジュメより。展示されていない史料もあります)
まず資料では、元治元年初頭の宸翰(しんかん)薩摩が裏で筋書きを引いていると言う情報が
利岡家文書(慎太郎の妻の実家の庄屋)にもあると言うことで、一地方の片隅にまで
行きわたっていたと言うのは驚きです
この年には、武市半平太ら逮捕された勤王党メンバーへの寛典や藩政改革を求め「二十三士の決起」があり
その資料も多数あって(捕縛され一時預けられていた阿波・牟岐の医家での彼らの遺墨も残っている)
一方で清岡道之助には同調しなかった大石弥太郎の藩庁宛ての嘆願書は「東洋暗殺を不問とするように」
と言うような過激な内容もあったと言うことです。
「禁門の変」では覚悟を決めた慎太郎も遺書を書いている。
(ただ原本は中岡家にあったが東京大空襲で失われている)
中岡家に伝わった経緯の書簡も残っていて「石川誠之助」が安達というものに託すが、安達は中岡家と
直接の面識がなかったので山本頼蔵に頼んでいる。


今回の展示では京都大学附属図書館、国会図書館、宮内庁書陵部と現存する貴重な慎太郎の書簡や
遺墨が一堂に展示してありました。

京都大学にある、かなり大きい6枚折りの屏風(中屏風六曲)に幕末の志士たちの書簡・詩書等が
貼り付けてあるもので、左端に迂山(慎太郎の号)が東行(高杉晋作)を読んだ詩。
右端に学問の師匠である間崎則弘(哲馬)の絶命詩を「門人書」とし、書にしたものであります。
左の東行は慎太郎らしい思い切った書だが、右の間崎の方は師匠に倣ったような繊細な文字と言うことで
その違いが見ることができます。
ちなみに、この屏風中の4枚にもいろいろな史料があって、入江九一・吉田松陰・高杉晋作・水戸烈公と
そうそうたるメンバーであります。
(おそらくこれらも貴重な史料なんでしょうね。京大附属図書館のデータベース「尊攘堂書翰屏風2翰」で
検索できます)
大きい掛け軸(一枚に)吉田松陰を読んだ慎太郎の詩書もありました。

宮内庁書陵部には木戸孝允宛の手紙が多数あるのですが、石川清之助(慎太郎)からの書簡は今回
4通展示してありました。当時の時勢報告でもあって「薩土盟約の経緯」など、二人の親密さもうかがわれる
物でありました。
乾宛ての書簡は封筒付で残されていて、展示されていました。 

国会図書館は石田英吉文書として残されているものであります。
「二十三士」関連では、石田らが集めた履歴書類がのちの彼らの顕彰の基にもなっています。
一方で「亡友帖」は石田が集めた志士たちの遺墨が並んだもので
この慎太郎の漢詩は、実は見るの二回目なんですよ(→こちらでも見た
長府では「意外な形だな」とみんなで、テンション上っていたものでもあります。
今回のメインは慎太郎の漢詩です。。。龍馬の方はあくまで付いてきたものです(前と逆です)

今回は講演と展示解説、顕彰会事務所でお話したり、楽しく時間を過ごすことができました。。。
お世話になった皆さん、ありがとうございました!
また日はあまり残っていませんが、正直有給休暇取って夜行バスで往復してでももらいたいぐらいの
見る価値がありますので。。。
よろしければシェア、拡散してください!
秋の第三幕も面白そうな内容でお聞きしました。


あともう少し
「石田英吉文書 亡友帖」でくぐったら、一坂太郎氏の文章が出てきました(→こちら
正直、あんまりいい文章ではないから、だいぶ前かなと思ったら平成25年って最近やん・・・ 
慎太郎の考えがわからないって・・・薩摩の西郷や大久保にこだわるより、慶応3年後半の暗殺直前は
吉井幸輔や伊地知正治と親密だし、彼らの政権構想の書簡も残っていて、また西郷らとは違うから
そのあたりからも探れると思うんだけどね。
最後の5行は正直、腹が立った!!
一坂氏は嫌いではないけど、いつも思うけど薩摩の書き方が雑すぎる(正直、触れないでほしい)
慎太郎はイメージ的に長州色が強いけど、最終的には先進性や「現実主義」って言ったことで
薩摩色の方が強くなっていたと思う。
ただ言われるように西郷と同調して(薩摩藩自体も各論あって)「武力討幕一辺倒」だけでは
(だから坂本龍馬が邪魔とか言うが・・・)ないんです!
by enokama | 2014-08-20 23:04 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)