大村益次郎暗殺と鋳銭司の墓所
場所的には大村神社の裏側のようにも思えるのですが
長沢池より山麓を回りこむ感じで北側の道を標識によって進みます!
数々の明治維新での軍功で名を上げ、兵部大輔と言う事実上の「日本軍」のトップとなった
大村は明治新政府で早速「軍制改革」に取り掛かった。
その中心は士族階級の特権廃止(藩兵の解兵・廃刀令・断髪)と国民皆兵につながる政策であり
武士階級の事実上の否定であった。当然、維新に功のあったと自任する者たちからは反発が起きる。
大村が軍の中心を大阪に置きたいとする構想は有名であるが
その人材養成の必要も感じ、兵学校建設などの要件を以て、明治二年八月に京都に入っている。
早速、伏見の練兵所での調練の視察や宇治に置く火薬庫、大阪・天保山の海軍基地予定地の調査など
京阪での軍事拠点建設に向けて、精力的に動き回っていた。
ただ、この動きの間にも常に刺客の影がつきまとっていたと言う。
九月四日午後六時ごろ。洋学者・足立幸之助、山口藩大隊司令・静間彦太郎と木屋町二条の宿舎で
歓談中に襲撃され、鴨川に飛び降りた足立と静間が刺客を引きつける形となり(二人は死亡)
その間に大村は浴室の風呂桶に身を隠して、この場は難を逃れている。
救出の際に風呂桶から出てきた大村は「サザエのまねをしておりました」と冗談を言い、長州藩邸に移り
静養中、本人も比較的元気だったとも言うが、ただ右膝関節の傷の経過が風呂場での雑菌が入ったために思わしくなく
その切断手術が必要とされ、十月一日に高瀬舟で伏見へ、さらに淀川を下って大阪へと護送された(翌二日着)
そのころ大阪府の医学の近代化を進めるため、病院及び医学校の設置が行われ
この七月に鈴木町代官屋敷跡に作られたばかりの大阪府病院に入院した(→こちら)
院長は大村が学んだ適塾の師・緒方洪庵の次男・惟準(これよし・洪庵長男は早逝している)であり
オランダ人医師・ボードウィンの診察を受けた。ボードウィンは幕末日本における西洋医学の導入に
功績を残したポンぺの推薦で長崎にて医学の講義を行っていて、当時から惟準と交流があり
一時帰国の際は惟準と共にし、留学を実現させている。
明治になって、この師弟によって近代病院が大阪に実現していた。
シーボルトの娘・イネ、その娘・高子。高子の夫で大阪医学校の教授も務めた三瀬周三も看護にあたった。
しかし一刻早く手術が行われていたらと言われるが「政府高官なので勅許に時間がかかった」との話もあり
ようやく行われたのが二十七日になってからで、結果的に手遅れとなった形で十一月五日に敗血症で死去する。
大村の遺言となった言葉によって、切断された右脚は師・緒方洪庵の大阪の墓・龍海寺の傍らに埋められた。
ただし、引き続いての不平士族の動きを警戒してこの「足塚」のことは昭和になるまで公にされなかったと言う。
遺体はおそらく谷町筋を北進し、今の天満橋附近にあった八軒屋浜から船に乗せられ、瀬戸内を進み
十一月十五日に大道村旦浦に着き、故郷の鋳銭司に戻った。