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エノカマの旅の途中

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二条城南「若州屋敷」~幕末の徳川慶喜邸宅

僕の好きな幕末史研究者の一人である家近良樹さんが
新しく人物叢書「徳川慶喜」を書かれました。
レビューを書くとお約束もしてるんですが、元々がかなり難解な人物で、関わる人物も水戸・薩摩と
それぞれに派閥もあるし、京都における公家や会津・桑名、江戸における従来の幕府老中体制との協調・対立を含む関係と多岐に及びますので、そのあたりの相関関係を整理することから大変でありまして、まだまだ理解を深めてから、紹介したいと思います。
従来の定説的なことから、最新の研究での新しい論述として結構、衝撃的な部分もありました。

その本の後ろの方のページに京都における「幕末主要地図」が紹介されてるのですが
慶喜が文久三年(1863)十二月から、大政奉還も近い慶応三年(1867)く月まで滞在した通称「若州屋敷」(若狭小浜藩京都屋敷)のことに触れられていて
僕自身もあまり知らなかった場所なので(各種の幕末マップでもあまり触れられていない・・・)
興味をもって、行ってきました!




文久三年一月、前年の幕政改革に伴う「文久新体制」として将軍後見職となった慶喜は
前後して上洛した松平春嶽・山内容堂らと共に、主に「攘夷実行」について朝廷と渡り合い
(春嶽が政事総裁職を投げ出して帰国したとも言われる時期で、容堂も程なく帰国)
「攘夷期限の宣言」「賀茂行幸・男山行幸」と攘夷の流れには逆らえず、一旦「幕府への攘夷催促」として
江戸に戻り、再度上洛したのがその年の十一月で、それまでは専ら東本願寺に宿を取っていたが
十二月二十一日、二条城にも近く都合のいい神泉苑南(現在の池ノ内町)の通称「若州屋敷」に入り
ここから長い京都での滞在生活が始まることとなる。

御池通。堀川通より東側は、第二次大戦中に「建物疎開」として五条通とともに大幅に拡幅されたが
こちらから西側の二条駅東までは、元々の道幅で残されて、古い商家も見られる。
二条城南「若州屋敷」~幕末の徳川慶喜邸宅_f0010195_235305.jpg

地図上の赤印(駒札の場所)から南への通り(矢城通)の両側東西200メートルで
南北は御池通から、はるか先に見える三条通のアーケード手前までの巨大な屋敷であった。
(地図緑印は六角獄跡)
二条城南「若州屋敷」~幕末の徳川慶喜邸宅_f0010195_2315129.jpg

また北側には東町奉行所があり(地図青印)二条城の堀の南側にあたっていた。
二条城南「若州屋敷」~幕末の徳川慶喜邸宅_f0010195_23205688.jpg

西南隅櫓
二条城南「若州屋敷」~幕末の徳川慶喜邸宅_f0010195_23214511.jpg

「若州藩邸跡」の駒札
二条城南「若州屋敷」~幕末の徳川慶喜邸宅_f0010195_2324668.jpg

参与会議(→関連記事)は当初、二条城で行われたが後に「後見邸会議」とも呼ばれて、しばしばこの場所が使われた。

この場所は何代もの藩主が、京都所司代を務め京都との所縁も深かった、譜代・若狭小浜藩酒井家(酒井家の租とされる広親の次男の流れを汲む「雅楽頭家」の系統で、広親の長男「左衛門尉家」の系統が 庄内藩酒井家になる)の京都屋敷だった(文庫版「徳川慶喜公伝2」にその写真あり)
幕末の藩主・忠義も所司代屋敷の生まれであって、自身も長らく所司代を務めた。
「将軍継嗣」問題に関しては、南紀派として井伊大老に協力し、時代を下って「和宮降嫁」にも尽力した。
しかし後の「安政の大獄協力者」と「公武合体派」と言う風評は「天誅」も辞さない動きのあった尊攘派志士らの憎悪となって「寺田屋騒動」での有馬新七らの動きは、この「所司代暗殺」の計画も含まれたものだった。
そして、薩摩藩は島津久光の率兵上洛(この動きに合わせての有馬ら尊攘激派の計画でもあった)となるが、この緊張状態での京都守衛に対しての職務に関して、自身の屋敷と二条城の防備に留まり、所司代屋敷と御所の守衛を怠ったとされ、罷免されて蟄居となっていたものである(文久ニ年十一月)
平和な時代ならともかく、諸藩が兵を引き連れて上洛し朝廷から「浪士鎮撫」を命じられるまでの時代となると
従来の体制では対応ができなくなってしまったのである。
そこで屋敷も空いていたところを、慶喜は京都における邸宅としたわけである。
所司代の後任には丹後宮津藩主の本庄宗秀となるが、長続きせず「所司代・桑名」「京都守護職・会津」に朝廷から任命を受けた慶喜と所謂「一会桑」体制となって、尊攘浪士らの対策に乗り出すのである。

この駒札と付近で発見された屋敷における遺構の灯篭
二条城南「若州屋敷」~幕末の徳川慶喜邸宅_f0010195_2247493.jpg

かなり幕末の京都における重要な場所だったと思うのですが
やはり敗れた「幕府側」と言うことで、長く知られない存在だったのかもしれません。
その駒札を立てた方は、小浜の若狭民俗資料館の館長だった方で
東京の小浜藩江戸屋敷の場所にも「蘭学者・杉田玄白」の生誕地として石碑が立てられています。
資料館は今、改装中で休館のようですが、また小浜にも1回行っておかないと・・・

この邸宅が持った意味について、家近さんはこう書かれています。
慶応二年八月に「二条城に入るつもりはないのか」と春嶽に問われたのに対し
城に入れば「旧套」つまり昔からのやり方を脱することができず「改革を行い難し」と答え
改革に取り組むための選択だったと言う。
この自由な空間では慶喜が本来持っていた、ざっくばらんな性格がいかんなく発揮され
それが政権に反映された面があり、若州屋敷を訪れた諸大名達とは茶をすすり、煙草を吹かす中で屈託なく話し合いが持たれた。
だがら自由な発想(反面、突飛的で理解されにくい行動にもつながったが)や来客者からの情報収集と幾度となく訪れた危機も乗り切った面もあったのだろうかなと思います。
しかし土佐が「大政奉還建白」を準備し、一方で薩摩と長州・芸州が上洛出兵も辞さない実力行動に移しつつあり、その情勢で京都に潜入した浪士らの攪乱情報も入っていた慶応三年九月にしになって
慶喜は若州屋敷から居所を二条城へと移すこととなる。
by enokama | 2014-02-02 23:53 | 私の好きな京都 | Comments(0)