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エノカマの旅の途中

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華岡流に入門していた橋本左内と佐野常民(春林軒と合水堂)

12日に阪大の適塾記念会から案内が来てまして
「大坂洋学事始」と言う講演を豊中・待兼山キャンパスで聞いてきました。

そのうちの一つのテーマが「緒方洪庵の薬箱」でして
伝えられてきた洪庵先生手持ちの6段に分かれた薬箱で
内部には丸薬や生薬の状態(茎や花・根)で当時の薬が残されています(蘭方も漢方もある)
この解析の作業を進められてきた経過の報告でありました。
まず丸薬・生薬には包みに名が書いてあり(丸薬には●●丸、生薬は二文字の名)
この名前は使用する洪庵本人にさえ、わかればいいので正式名でもなく、いったい何の成分かっていう
わからない面があって、内部の成分も調べておられます。
洪庵は蘭方医ですが、患者の症状に合うと思ったら漢方も勧めており(この面で後述の合水堂との交流も
あった)その蘭漢方の割合は当時でも理想的だったのではとのことでした。
また適塾は今も薬の町である道修町の中にあるので、薬室っていうものがなく、散歩がてらに手に入るような
環境でした。



特別展示もありまして(12月27日まで)
洪庵先生所縁の主だった代表的な展示は、大半が出されていました。
今回初めて見たのは「合水堂」関連で、中之島山崎にあった塾の平面図(外科なので、診療室(手術)があった。
適塾は内科で往診だったので、病室はありません)
場所はやはり、現在の中央公会堂から東側方面の中之島の端っこにあった(今の中之島はさらに当時より
東側に埋め立てられて広がっている)

有吉佐和子の著作などでも有名な華岡青洲は紀州の人で、全身麻酔薬の発明で外科手術を成功させた人物。
紀州の病院の隣には春林軒と言う医塾を開き、後進に伝承し、全国に「華岡流外科術」は広まった。
弟・鹿城(ろくじょう)は大坂に出て華岡流分校とも言うべき合水堂を開き、鹿城没後の合水堂を支えた
青洲養子である南洋と、3人の肖像が展示してありました。
華岡塾では外科・整形外科・泌尿器科・産婦人科と教育内容は多岐に及び
実際に青洲自身も、いずれもの手術を行った記録が残されている。
華岡塾の門人録もあって適塾入門者では佐野常民の他に橋本左内も入門していたとは知りませんでした。

そして、参考資料で和歌山市博物館で昨年(2012年)に行われた特別展「華岡青洲の医塾春林軒と合水堂」
図録があり、問い合わせて取り寄せようかなと思いましたら、ご丁寧にメール返信でその他の文献も教えて
いただけました。
華岡流に入門していた橋本左内と佐野常民(春林軒と合水堂)_f0010195_1542623.jpg

そして、一つ前の記事にも書きましたが、22日に忘年会でミナミで宿泊して、早く目が覚めたので
思い立って「よし和歌山まで行こう」と南海電車に乗って、行ってきました!


和歌山市博物館は市駅から西へ歩いて5分ほど
入場は100円で、古代土器等の展示から、中世の雑賀衆関連、近世の南紀徳川家で(吉宗自筆の馬の絵や
紀州出であった将軍・家茂の書などもあった)明治になってからは、日本でも最初に徴兵制度(交代兵)が
導入され、その資料等が(家庭の働き手を取られることでの断り状とか)印象的でした。
そして書籍資料室があり見ていて、少し質問していたら、ちょうどメールをいただいた学芸員さんが
運よく出勤されていると言うことで、いろいろとお話しを聞くことが出来ました。

まず門人録は明治になって、地域別にそれまでにあっただろう名簿をまとめたものが残されているんですが
やはり転記の形なので間違いのある可能性もあること。その各人の名の上に○があるのが合水堂入門者で
その他が春林軒入門者だが、佐野にしろ左内にしろ○がなくって、門人録上では春林軒で学んだってこと
になっている。佐野常民記念館では「春林軒入門」とありました→この記事
免状(卒業証書)授与は、本校の春林軒で行われ、分校・合水堂の塾生も和歌山に赴くので
「春林軒」を出たと言う認識で(だから名簿上で食い違いが出る)巣立つ者も多かったかもしれません

 
嘉永4年7月24日入門  橋本左内-適塾在籍は嘉永2年冬~嘉永5年閏2月1日
嘉永2年3月7日入門  佐野栄寿(常民)-弘化3年(1846)京都・時習堂~嘉永元年8月(1848)適塾~
 半年ほどの在籍で嘉永2年・春林軒(合水堂?)-同年・象先堂(江戸・伊東玄朴)

左内は在籍が重なっているようなんで、おそらく中之島で学んだんじゃないかなと推測もされる。
(紀州との行き来は大変でしょう)
実は外科の腕も持っていて、嘉永5年(越前帰国後か?)に陰茎切断術と乳がん手術を行っている。
父・長綱(彦也・春蔵)天保4年、合水堂入門。祖父・長義(春貞)文化15年、春林軒入門。
三代続けての華岡流入門で、彦也は藩主・春嶽への外科手術も行っている。
佐野はあっちこちの塾に行ってますし、適塾は半年程の在籍と言いますし、華岡流も半年ほどの在籍で
江戸に移ったようになっています。多忙そうな佐野も万事便利な大坂の合水堂に行っていた方が自然に思えます。
同様に両門をくぐった土佐の弘田玄又は嘉永4年3月21日入門でこちらは、はっきりと○のついた合水堂でした。
(適塾と合水堂両方で学んだ塾生→こちら
教えていただいたのは「合水堂」の読みで、子孫の方が言われていた「がっすいどう」と伝えられてきた
そうなんです。
一般的には「ごうすいどう」って聞きますが、当時の本当の読みってのははっきりしないものも多いですよね。
 
今回は時間がなくって行けなかったのですが、春林軒の母屋と蔵は当時の建物で残されて
周辺も整備が行われております→こちらこちら


隣接に市立博物館があり、この日は休みでしたが県立図書館の方は開いていて、こちらの方が関連蔵書が多いと教えていただき、引き続き調べてきました!(経験上、県庁所在地では必ず市立・県立いずれか
一方は開いているもんです。あと城の近くには県立博物館もあります)
当時の記録も交えた大正時代に出された伝記がベースで、昭和40年代にその現代訳風に読み安くした
書籍は読みやすくってわかりやすかったです。後は研究書が数冊ってとこでしょうか。

麻酔薬の開発からから外科手術が可能となって 
有名な一連の癌手術の他、目や鼻から下の方の話まで(女性器の手術の記録もあったのですが
ちょっとわからないので)
男性器では「包茎手術」ってのがありました。
これは笑うような話でなく、かなり深刻なもので生まれつき皮が分厚く大きくなりすぎるので、性器が表に
出てこない・・・性交どころか、放尿にも困ると言う症状でした。
この手術は大胆に皮の切除を行っています。(術後の包帯の巻方の図解あり)
疱瘡を患った女性で、痘痕が気になり(現在では美容整形的なものかもしれない)皮膚の手術や
馬足のように変形していた整形外科的な術例など。
多種多様ですね。また本も読んでいただいたら面白いと思います。
ほんとスーパードクターだな!

あと門人録で気になった名前で(佐分利は合水堂。嵯峨(嵯峨根?)は春林軒)
 佐分利良哲 文政8年7月5日入門(周防 吉敷郡向山村) ・・・佐分利先生ってまさか(時代は違うけど)
 嵯峨見竜  文政6年2月13日入門(丹後 中郡周(木へんに只))・・・嵯峨根の誤記?この人の父かも 
Commented by 桐野作人 at 2014-01-06 00:04 x
嵯峨根かも知れないのですね。
Commented by enokama at 2014-01-06 23:44
桐野先生。

おそらく、そうだろうと思います。子孫の方に「華岡門下だった」と言う伝承があれば、間違いないでしょう。
by enokama | 2013-12-25 21:18 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(2)