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長府~下関2013 中島名左衛門の死

文久3年5月。湧きかえる攘夷論に対し、幕府は攘夷期限を5月10日と奏上する(→関連記事
狂喜した長州では、強硬な攘夷派の久坂玄瑞や光明寺党の面々を中心として
関門海峡を通る戦意のない外国船を次々と問答無用で砲撃して行く(→関連記事
アメリカ船・ペンブローブ号、フランス船・キンシャン号、オランダ船・メデューサ号・・・
これらの船は、まさか海峡を航行するだけで砲撃されるとは夢にも思わない。
いずれも不意を突かれた形で反撃もできず、なんとかその場を逃れて、打ち払われた形となった。

このオランダ船打ち払いに沸く、5月29日の馬関に萩本藩世子・毛利定広が入り
砲術家の中島名左衛門を連れて、各地の砲台の巡視を行い
竹崎の白石正一郎邸に入って、戦術会議が行われた。
長府藩主・毛利元周、総奉行・毛利宣次郎、この地に落ち延びていた公卿・中山忠光
長州海軍の先進家であった松島剛蔵、光明寺党の壮士らが今後の対応について話し合った。



中島名左衛門は長崎の人で海防を先覚者・高島秋帆に学び、西洋兵学や砲術の専門家となり
その中島を長州は砲術教授として招いていたのである。
この軍議で技術者の立場から、問題点を洗いざらいに述べた。

現在の各砲台は急ごしらえでまだ貧弱である。その砲の扱い、照準の定め方もまだまだ未熟である。
これでは海上を動き回る船に命中させることは困難である。
証拠にあれだけ接近していたペングローブ号には、ほんの1、2発しか命中していない。
加えて、軍規も不完全で戦術の統制も取れていない。
「築城不完全、射撃訓練不十分」と現状を率直に指摘した。
これでは本気を出した西洋海軍には勝つことはできない。。。
早々に軍規の確立と実弾による射撃訓練が必要で、精神論だけでは臨めない。

至極当然な論であるが、戦勝気分である光明寺党の壮士らはこの意見に対していきり立った。
「実際に外国船に対して多くの損傷を与えて逃亡させている。たとえ武器が進歩していても、勇気胆略の
ない外国人には負けない。今度乗り込んで来たら、小舟で敵艦に近づき、皆殺しにするまで」と
精神論をぶち、聞く耳を持たない・・・・
具体的な方針を決められないままに、この日の軍議は終わった。

名左衛門は白石邸の北、新地と呼ばれるあたりにある妙蓮寺の南側、呉服屋・藤屋の二階の宿舎に戻り
風呂へ入って、部屋の窓を開け涼んでいた時であった。
その時、数人の刺客が押し掛け、抵抗する間もなく暗殺された。
首への致命傷、背の突き跡、指は咄嗟のことで刀を素手でつかんだらしく、5本とも落ちていたと言う。
享年47歳。

墓所は隣接した妙蓮寺にある(他に数か所あり)
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写真は南側の門(東側門向いには「高杉晋作終焉の地」碑がある)の下に、小さくひっそりと墓標が立っている
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(明治35年建立)

ほどなく、アメリカ軍艦ワイオミング号が海峡に姿を現した。
今までの通航目的ではなく、戦闘準備を整えた報復攻撃のためであった。
この際、唯一の蒸気船であった壬戌丸は庚申丸と共に攻撃を受け、沈没している。
続いてやってきたフランス軍艦は前田砲台を破壊し、村の家を焼き払った。
名左衛門の危惧していた通りの結果となったわけである。
この敗北を受け、ようやく体制の立て直しと「奇兵隊」創設と言った兵制改革に乗り出すこととなる。
暗殺の容疑者は一連の戦闘もあって、はっきりと見つからなかったが光明寺党の者の犯行と見られる。
この攘夷で意気上がる狂気と、外国艦船の実力をまざまざと見せつけられた狭間で、起こった悲劇であった・・・
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by enokama | 2013-09-07 21:33 | 長府藩・小倉藩 | Comments(0)