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エノカマの旅の途中

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城山三郎「冬の派閥」~徳川慶勝の生涯

幕末の尾張藩主だった徳川慶勝(関連記事→こちらこちら)について
ちょっと調べたりしてるのですが、がっつりとした資料が「ない!」のであります。
(名古屋市史も正直、知ってる範囲だったのでしょぼかったし・・・)
そこで小説ではありますが、読んでみました。
城山三郎「冬の派閥」~徳川慶勝の生涯_f0010195_22382477.jpg




近世史の伝記小説で、「男子の本懐」浜口雄幸、「落日燃ゆ」廣田広毅
有名な城山三郎氏の作品、幕末の尾張藩主であった慶勝の生涯を描いたもの。

あの七代将軍吉宗にも楯突いた宗春の出現以後、尾張藩主は吉宗の血統である御三卿からの押し付け養子が続き
独自の施策も行えず、藩政の停滞が続いた。
幕末になって「尊王攘夷」を掲げる田宮如雲を中心とした金鉄党は英明な藩主をと運動する。
そこで支藩・高須から迎えて実現したのが慶勝で、金鉄党の誠忠な若者たちのパワーを生かし
田宮や高須家時代から仕えていた長谷川惣蔵を重用し、藩政改革に乗り出す。

尾張藩是は藩祖・義直の代から「王命によって催さるること」として勤王第一、朝廷の意を最も重んじる。
当然「攘夷論」に満ちた朝廷の意向を受けて、慶勝も攘夷論者であり、叔父と甥(斉昭の姉が母)でもある水戸・徳川斉昭の影響も受ける。
だが御三家と言われるものの、元来からの幕府との不仲・距離感や、成瀬・竹腰両附家老の勢力争いもあった家臣団の分断と翻弄され続けるのだ。

安政でのいわゆる一橋派による「慶喜擁立運動」は、御三家の力も借りようと松平春嶽から
協力を持ちかけられるも「開国」(春嶽)VS「攘夷」で対立し、慶勝は乗り気ではなかった。
そこで、春嶽は腹心・田宮への説得を図り、尾張藩論への介入を進める。
その慶勝がようやく動いたのが、井伊政権下でのアメリカ大使・ハリスとの「日米通商修好条約」であり
結果的に「無勅許調印」となった行動に対し、朝廷崇拝の篤い慶勝は憤り、斉昭・春嶽らと行動を共にし
やがて敗れて隠居、藩主の座を下ろされ、田宮も免職・閉居し、後ろ盾だった成瀬家も退潮となる。

藩政は慶勝、七歳下の弟で高須からの新藩主・茂徳となり、竹腰派(ふいご党)の政権となる。
井伊暗殺後は、慶勝の復権に伴い、再び田宮や成瀬派の政権となり、京都に入っての朝廷守護にも活躍する。
反面、藩主・茂徳や佐幕派の面もあった竹腰派との対立も深まり、茂徳は若くしての隠居となり
慶勝の三男でまだ六歳だった義宜となる。後見はもちろん慶勝で再び、藩政の実権を握った。

そして八一八政変から禁門の変「第一次征長」となり、全権委任を取り付けた慶勝は尾張の勤王僧・鼎州も伴い、武力で威圧しつつ恭順を求め「寛大な処分」となる。
ただこの処分には、幕府からは緩すぎるとの批判となるが、再度の「第二次征長」には反対し、結果は長州の勝利に終わる。

慶応三年暮れ「王政復古の大号令」では公明正大な態度を取って、春嶽と共に慶喜(辞官納地等の問題)と
の交渉をし、岩倉らへ対しても、新政府への慶喜の議定職就任、それに向けての(下坂中の慶喜の)
再上洛と話をまとめつつあったが「鳥羽伏見の戦い」となって、慶喜は江戸へ帰り、水泡となってしまう。

そんな中で起こったのが「青松葉事件」である。
この小説では「朝命として、架空の佐幕派を仕立てて処刑」との論も取られ
強硬派がエスカレートして行き、処刑者が増えてしまう。
その数は「三家老十一士」と長州処分での処罰者と奇しくも一緒の数だった・・・
なぜ、尾張がこの期に及んで苛酷な処分を行われなければならなかったのか。
「薩長の恨み」として、薩摩は木曽三川工事での恨み、寛大処分であったはずの長州からは
「三家老の首実検」に関して、一度目(尾張サイドでは首受取の認識)は附家老成瀬正肥が立ち会い(よく見られる「三家老首実検の絵」は成瀬が描かれている)
そして、その場に間に合わなかった慶勝が臨んで、二回目の首実験(こちらが正式なもの)が行われたので「二度、辱めを受けた」とのことでの尾張への仕打ちと言うことも言われたそうだ。(も一つ弱い感もあるので、いずれもありえないと思うが)
そして最も言われるのが「岩倉具視」の意向で、このころの陰惨な出来事は(赤報隊のことにしろ)
ことごとく岩倉のせいにされてしまってるような感じにも思えるので、それもどうかなと・・・
僕も色々とは調べようとしたけれど「真相は不明」なんですよね。

この事件後、処刑された者たちの遺族は座敷牢に入れられ、不自由な生活(冬でも暖が取れない)の中で体調を崩し、死に至るものも多かった。
そして恨みはのちまで残った・・・
また処刑人の介錯にあたった明倫館の書生たちが次々と怪死したこともあった。

最後の章では尾張藩士らの「北海道八雲開拓」について触れられている。
この開拓でも長くつらい日々が続いた。
尾張で、官途について栄達した者は数えるほどしかいない。


全体として慶勝は側近であったはずの田宮や、自身の理解者であった成瀬正肥とも距離感があるように
書かれて「孤独」であったようにされている。
幕府からも朝廷からも、そして薩摩や攘夷で一致する面もあった長州からも期待をされ
その中での(越前にも言えることだが)微妙な難しい対応を迫られている。
実情は最初に書いたが、あまり藩政資料がないように思え(慶勝自身の日記も天保十年~文久元年と明治五年以降のものもあるが、明治維新前後は欠落)
「青松葉事件」での家臣団の不信を引きづったままの明治維新で、慶勝の行動も理解されなく
検証や残すことに対しての抵抗感もあったのかもしれない。

個人的には、この小説よりももっと強い意志を持った人で(慶喜、容保あたりにも直言できる立場)
その時々の判断の果断ぶりはもっと評価されてもいいのではなかろうかと思う。


あと「第一次征長」での慶勝の行動がわかるような資料を探しているのですが
(長州処分は慶勝が主だったのか、西郷に任せる面も多かったのか?)
ご存じの方、おられませんでしょうか?

by enokama | 2013-08-29 22:16 | 尾張三河美濃 | Comments(0)