薩摩旅行2013~鹿児島にある庄内とのつながり
いつまで続くんやろうか・・・
16~18日にかけて、下関から薩摩半島~鹿児島へと行ってきました!
帰る日の18日には桜島が大噴火して、全国ニュースになりましたが
僕はその30分前に立ったので、入れ違いのようになりました・・・
噴火の2時間前の桜島(磯庭園より)
最初に今回の最大の目的である、鹿児島にある庄内関係の史跡を紹介します。
昔から鹿児島では「桜島、西郷さん、山形屋」の悪口は言ってはならないと言う
言い伝えがあると聞いたことがあります。
桜島は長い歴史の中で切っても切り離せない関係ですよね。
考えたら歩いて市内を回るのは、今までなかったので(バスツアーばかりだったから)
気付かなかったのですが、滞在した二日でもうっすらと灰は降っていました(車も大変だな)
南洲墓地への階段
灰置き場があるのだ
山形屋(やまかたや)は鹿児島NO1を通り越して、実質オンリー1の地位を築いている百貨店です。
創業は宝暦元年(1751年)で創業者は庄内の北前船商人だったことも、古くからのつながりを
感じるところであります
幕末においての庄内と薩摩の縁は(上記のように、北前船を通じての経済交流は古く太いものがあった
と思われる)江戸警備の新徴組が庄内藩預かりということで、不逞浪士の煽動鎮圧にあたって
庄内藩が主力となって起こった「薩摩藩邸焼き討ち事件」が有名であります。
その件も影響してか庄内は会津と並ぶ「朝敵」とされ、戊辰戦争では新政府軍の征伐が行われました。
しかし、大軍に物を言わせて新政府軍が圧倒したわけではなく、早くから日本海側の異国船対策もあって
庄内の軍制は近代化・組織化されていて、一歩も引かない戦いを見せ
ほぼ戦いには負けなかったものの、周辺諸藩の降伏によっての庄内での帰順開城でもありました。
その薩摩藩参謀・黒田清隆の処分は首謀者の処刑もなく(戦死者を首謀者とした)領国もほぼ安堵され
以降、両藩の交流も始まり、庄内は多くの藩士を薩摩に留学させることになるのです。
そして、西南戦争時にいた二名の庄内藩士は帰国することなく薩軍と共に戦う道を選び
戦死するのです(→経緯はこちら )
南洲墓地に植えられている「庄内柿」
伴兼之・榊原政治、二人の墓
秋田人の墓もあった。秋田は勤王藩でしたからね。
そして鹿児島中央駅の西側(武地区・歩いて6~7分ぐらい)にある、西郷隆盛が生涯で一番最後に住んだ屋敷跡である。
井戸がそのまま残されていて、実際に炊事や畑仕事に西郷さんが使っていたもの。
こちらには公職からは退いていた菅実秀が門人を連れて、明治八年五月に訪れた(→酒田の南洲神社)
そして鶴岡と鹿児島の兄弟校も