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エノカマの旅の途中

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幕末丹後蘭学の系譜と適塾と雄藩への仕官

FBではたまに経過は書いてきたんですが
幕末の二人の丹後出身の蘭学者(むしろ英学者かな)について、ちょっと調べています。
中締めってとこで(あんまり思うように進まないけど・・・)まとめておきたいと思います



嵯峨根良吉(良起・見竜)

丹後宮津藩の町医の家に生まれ、嘉永七年(1854)藩の援助で十六歳で適塾へ入門し
のちに越前大野藩洋学館に学び、さらに大野藩主の勧めもあって
長崎遊学を果たしこちらでは英学も学び、西洋兵書を研究した。
さらに江戸の江川英龍塾に招かれ、砲術の講師となり
剣術でも斉藤弥九郎道場の師範代になるほどの腕前で文武両道に秀でた人物であった。
長崎海軍操練所のあった安政五年(1858)に練習航海の咸臨丸に乗船し、鹿児島を訪れている。

元治元年、前年の薩英戦争から海防策の再構築を図る薩摩は
英国への接近による五代才助ら留学生の派遣
そして焦土と化した諸施設の復興から、新たな組織作りに乗り出す。

「開成所」と呼ばれるもので海陸軍砲術、兵法、操練、築城、天文、地理、敷学、測量、航海、器械、造船
物理、分析、医学と幅広い教育機関となっていた。
「海陸軍事、測量器械等の学、開明いたし武備十分相調え、攻守の権我の帰し候様」
この命名は幕府の「開成所」と張り合おうとする意気込みもあっただろう。
開成所は蘭学から始まったが、時代の流れとともに英学に切り替えられていった。
そして前島密、安保清康と言った人物も招かれている(本間郡兵衛も英語教師で招かれている)

慶応二年五月には海陸軍の所管分割が行われ、さらなる海軍力の強化が図られる。
そこで英学者として、嵯峨根が開成所教師として(寺島宗則とのつながりで)招かれ
英国海軍法規を翻訳する。役職は開成所助教・船奉行添役となる。
嵯峨根を有名にしたのは、翌三年に藩庁に提出した七条からなる「時勢改正」で
二院からなる議会開設に始まり、教育、民政、財政、国防と細部に具体的な数字も盛り込まれた。
この来るべく新国家論は、ちょうど大河「龍馬伝」のころに坂本龍馬のいわゆる「船中八策」の原型かと
話題になったこともあったが、嵯峨根の策は具体的な数字もあって抽象的なものではない。
個人的には赤松小三郎にしろ、由利公正の「五箇条のご誓文」にしろ、一般的に新国家ビジョンというものは
当時、幅広く多くの人が構想していたのであり、坂本龍馬だけが特別ではないと考えている。
天に上った彼らが「坂本龍馬って誰?なんで一緒にされるの」って思っているかもしれない・・・
嵯峨根はこの年、薩摩藩士の列に加えられることとなるが
惜しくも明治元年に三十二歳で死去し、歴史に埋もれてしまった。

(参考)
平成17年度・適塾記念会報  薩藩海軍史 人物叢書「小松帯刀」
 関連記事→こちら


石黒寛次(関連記事→こちらこちら

丹後田辺藩(現・舞鶴市)出身
佐野常民は京都・広瀬元恭の時習堂で理化学を学んでいたが、嘉永四年(1851)にその塾生だった中村奇輔、
久留米出身の田中近江、同儀右衛門ら(→この方)とともに佐賀に帰藩した佐野が藩主直正に推挙し、佐賀藩精煉方御雇となる。
得意の洋書の翻訳を中心に、さらに長崎海軍伝習所にも佐野・中牟田倉之助らとともに参加し
技術の習得にも努め、安政二年(1855)に蒸気機関車、蒸気船の雛形制作を完成させる。

文久元年(1861)幕府外国奉行・竹内保徳を正使とした、欧州各国との日本国内における開港問題を中心とした遣欧使節にも随行し欧州各国を約一年かけて歴訪し、各国の文明開化ぶりを吸収した。
ちなみにこの使節団には通詞として、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(薩摩藩士・寺島宗則。当時、幕臣として蕃書調所でも教鞭を取っていた。のち薩摩に帰藩し再度、藩士を連れて英国留学を果たす)がいた。
佐賀藩の同行者は岡鹿之助(砲術方。石黒と同じ「賄方」の立場として)そして、藩医でもあった川崎道民で
川崎は写真術も学び「佐賀写真術の元祖」として、現在の佐賀新聞の源流の創刊にも関わっている。

そこから三重津海軍所と発展して行き、佐賀の近代化に多大なる貢献をしている。


二人の代表的な人物を書きましたが、実は適塾の姓名録には十七名の丹後宮津・田辺の出身者がいて
(防長二州で五十六名、越前全体で二十五名と比較して、宮津・田辺合わせて十万石の地域からの人数としてかなり多い感がある)
何か蘭学の盛んな理由や系譜があるのだろうかと気になってきたんです。
そして調べていたら、大坂だと緒方洪庵だけど、種痘の普及のころにも日野鼎哉がいたように
京都における蘭学の流れが、この広瀬元恭から遡って小石元端らと系譜があったのです。
そして行き当ったのが、蘭方医・新宮凉庭(天明七年(1787)~嘉永七年(1854))で田辺藩由良(現在の宮津市由良)の出身。
長崎で蘭学を修め、シーボルトとも交流があり、京都で開業。
医者の枠を越え「順正書院」そして理財家としての大人物でありました。
この凉庭もその才を評価され、藩が多大な援助をしたともあり、学問の盛んな地域であったのではと想像されます。
石黒寛次も、くぐって見ましたら涼庭とのつながりもあったようです。
そして適塾にも「新宮涼庵」と言う人物が、安政四年四月入門とあります。
調べたらやはり養子であり、大坂・京都の蘭学、宮津・田辺のつながりと人材登用の道ってのがあったんだろうなと思われます。

嵯峨根については「丹後郷土資料館」で調べられているようで、石黒については東舞鶴の「赤レンガ博物館」で
数年前に展示があったようです。
そして藩政史料としては、西舞鶴の「舞鶴市郷土資料館」にあるようです。
石黒と新宮凉庭についてもう少しつめて、調べてみたいなと思っています。。。

まあ書いたとしても興味示す人がいるとも思えないので、自己満足ですけどね。
この文もネタバレみたいなものだけど、逆に検索してもらって知ってる人に情報もらえたらなと
甘い期待をしています(笑) 

by enokama | 2013-06-06 23:20 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)