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エノカマの旅の途中

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庄内藩・江戸薩摩藩邸焼き討ちの真相~迷説編

前回の記事→こちら
関連記事→その1その2その3

今日は違った角度で、この事件を見つめたいと思います。
関連記事も貼ってますが、僕の考えは定説になっているような
「王政復古後クーデター後の公議派の巻き返しを恐れた西郷隆盛が「武力討幕」に持ち込むために
江戸藩邸の浪士たちを使って攪乱した」ってのは、具体的な書簡等も見たことないので否定しております。
(また具体的な史料があるのであれば、ぜひ教えていただきたいです)


引用は 伊牟田比呂多「幕府挑発 江戸薩摩藩邸浪士隊」
作者は鹿児島の方で(別に伊牟田尚平とはつながりはないらしい)一応
歴史の各種団体に顔を出したりもしているらしい・・・

序章はその「公議派」の反撃を恐れた岩倉・西郷・大久保が「江戸の浪士を再度、挑発させよう」と
談義する様子が「」付きで綴られています。
大久保と岩倉のスタンスが、この慶応3年12月に関しては互いに微妙に違ってる事実ってのは
ご存じないのでしょうね。。。



この作者の方は「西郷さん大好き」らしく、浪士の攪乱工作の言いだしっぺは岩倉に。
もちろん、孝明天皇を殺したのも岩倉だし、幕末維新は岩倉や大久保の陰謀でなされたように
書かれています。あとは「青松葉」や田中河内介のことやらいっぱい・・・
西郷さんに関しては、不審な死を遂げた益満休之助に関して病院を手配したことや
相楽の動向も気にしていたと、いいような面は強調する。
結論として岩倉・大久保が、西南戦争で西郷を死に追いやった後
歴史として「この事件は西郷と三首領(赤報隊)の責任」とされている。
謀議の中心は、西郷・大久保・岩倉であった。しかし西郷は浪士らを切り捨てるようなことはしなくなかったが
大久保・岩倉は(これまでの悪事を誇張して書くことによって、悪役に印象づける)容赦なく切り捨てた・・・
以上で感想は終わり、内容もないんですが・・・この下に一番の問題点(迷説)を書きたいと思います。

一番上に貼った関連記事でも書きましたが、大政奉還後の情勢に鑑み
吉井幸輔から江戸の薩摩藩邸に向けて「攪乱工作の見合わせ」の書簡が3通残っているのですが
それに対しての文で(要約)

12月12日に公議派の政治的反撃が始まってからは、矢継ぎ早に攪乱挑発の活動指令が送られた
はずである(あくまで相楽や伊牟田は指令に忠実だったとしたいらしい)
なのにそれらの書簡が一切残ってなく、止める方の書簡が残っているのはおかしい。
薩摩藩邸は焼き討ちにあったのだが、品川に回航させていた藩船によって
重要書類は持ち出されたとされる。しかし、浪士への指示書は保存しておくものではなく
焼却すべきものであるだろうし、その上方への海路も暴風雨の中であって、浸水の酷い中での
航行となって、書状も水浸しとなり、墨字は判読不能となったはずである。
今に残されている物は後日、吉井幸輔が改めて書いて入れ込ませたものであろう。
この書簡だけを残したと言うことは「京の本部は鎮静を指示しているのに、現地の江戸薩邸浪士隊が
勝手に暴走した」と印象づけることとなり、彼らを抹殺することによって真相を隠し責任をかぶせ
岩倉・大久保らの立場を守ったのであろう。

僕が言いたいのは、こんな史観って「実際にある史料を無視して(否定)」推論で結論づけて
「真相に迫ってみた」ってのは、とても危ういことなんじゃないでしょうか

いつも名はよく出てくるのに「どんな人物かわからない」吉井さんは、加地の本でもそうだけど
黒幕的な人物に仕立てられやすいんですね。
ほんとにこの人がもっと記録を残していれば、それこそ真実を知ることができると思うんですがね。

本的には西郷好きが読んでもなんか後味悪いし、伊牟田の生涯をまっすぐ追ってるだけならいいけど
推論や著者の都合のいい資料(史実本じゃなくって作家の書いた本が多い。なんか意味なく、早乙女貢も
あるし?)の引用なので、何も残るものはなかったです。


伊牟田尚平やこの事件に関しては、桐野作人氏が南日本新聞でいい連載を書かれています
(とてもわかりやすいです)ウェブでも読めますのでごらんください→こちら
by enokama | 2013-01-14 23:57 | 薩摩藩 | Comments(0)