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エノカマの旅の途中

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木曽三川公園のコスモスと薩摩義士の治水神社


先週10月6日の撮影ですので、今度の土日はちょうどいいころかもしれません。

木曽三川公園センター
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治水神社(岐阜県海津市海津町油島)
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まだ幕威のあった宝暦年間。木曽三川の水害(輪中などの工夫にも見られる)に悩む濃尾平野の
「宝暦治水」工事の手伝い普請を薩摩藩は命じられる。
もちろん費用・人夫は藩の持ち出しである。その秩序を以て江戸時代は成り立っていたとも言える。
その長良川と揖斐川の分流工事の中心となった「千本松原」には、その苛酷な工事に臨んだ薩摩藩士らの
文字通り、命を懸けた戦いもあって、病死する者や幕府からの妨害行動、そしておびただしい自害者ら
多くの犠牲者を出して完了した。
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遠く離れた地に島津の紋
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この工事の責任者だった平田靭負が祭神となっている。
そして犠牲となった人々の慰霊の場となっている。
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犠牲者の名が刻まれる
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治水の碑
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この工事によって多くの犠牲者と何より多額の出費によって、薩摩の財政を大きく傾けてしまう。
一応の財政改革に成功した調所広郷の出現および、積極的な開国論による貿易等で
幕政改革を求める雄藩の一角から、王政復古による明治新政府の中心となっていくのである。
そして明治維新後、幕政下では伏せられていた、この工事の真実が地元住民によって明らかにされ
顕彰活動も始まる。
明治33年には、この油島の地(治水神社の1キロ下流)に最初の(2020年訪問→「宝暦治水之碑」)が当時の総理大臣・山縣有朋列席の下で建立され
以降も東郷平八郎や、多くの地元実力者や歌人等によって顕彰碑が建てられている。
そして昭和13年になって「治水神社」が創建され、以来この当地の方と鹿児島との交流も続いている。

by enokama | 2012-10-12 23:37 | 尾張三河美濃 | Comments(0)