エノカマの旅の途中

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BS歴史館~吉田松陰

今日の放送は海原徹先生の話もよかったし、勉強になったって感じです。。。

約二年しかなかった松下村塾ですが
92名(諸説ある)が卒業し、維新までにそのうち20名が亡くなるものの
総理大臣2名・大臣2名・県知事4名と、異例な一大学閥と言えるほどの人材を輩出しています。




特色は松陰先生自身が若いこともあって、従来の師弟関係であるような上下関係ではなく
横のつながりが特色で、松陰自身が「僕」(本来は「下僕の意味」)「君」と呼び、意識した面もあって
教壇がなくコの字の机の並びで「討論形式」で、自由な発言ができる授業が行われました。
その授業はいろんな職種の生徒が昼夜問わず通学してくることで(武士を止めて帰農した者も元来多く
民衆の教育意識も高かった)先生は24時間対応(しんどいね)で
集まりしだい自然発生的な授業が行われ、熱い討論方式で(生き方や志についてなど)
ある時には皆して涙することもあったそうです。
先生も大人げなく13、4の子供にも本気で怒り、ぶつかり熱血そのものでした。
これはこちらの映画でも触れましたが、野山獄での「長所を生かす授業」(お互いの得意分野を教え合う)
があり原点にもなりました。

そんな中で話があって、ある時に松陰先生から山縣狂介に対して「大義のために命をかけて死ねるか」と
言う問いに、山縣は即答できず三日三晩考えて(ガタらしい、慎重さ・・・笑)「大義のために死ねます」と答え
先生は喜んだとか・・・
天下を意識した大きな視野での学習でもありました。

その弟子、高杉・久坂と言った人物は相次いで京・江戸へと赴任し(それだけの人材が育っていたこと)
「飛耳長目帳」(飛耳長目はスパイの意味もあった)として情報が送られ、それも生きた教材になりました。
ここからはよく語られる「松陰先生の過激化」となるんですが、こう言った意見を藩主にぶつける時も
「真心を尽くして相手に迫れば、必ず伝わる」との信念を以て、大方決まりかけた時もあったそうです。
けれども「老中・間部詮勝暗殺」と言った過激な計画などには、弟子たちが必死になって抑え
(先生が過激で生徒の方が冷静)それに対して「絶交」と書いた手紙を、先生が送ったことは有名な話ですが
海原先生によると、何かあると先生はすぐに「絶交」と言って、それをすぐに後悔して反省することも多かったとか。。。

その松陰先生の死後の話ですが、伝記を書こうと言うことになって進めるも
「これが先生の伝記になるか」と高杉が破り捨ててしまった。
その塾生の回顧では「先生の精神面を人に知らせようとすることは絶対不可能と言ってよい」
どんな人物か簡単には語られなかったんですね。

最後に伊藤博文の松陰先生との逸話に触れられて
「才劣り学幼き質直にして華なし 僕すこぶる之を愛す」
なんか、けなしてるのか可愛がられているのか?
のちに「あまり教えも受けず、世話にもなっていない」とも突き放したような発言もあったそうだけど
裏では感謝する言葉も残している。
イギリス密航や高杉の馬関挙兵と言った、本当に命を賭けたギリギリの行動ってのが
実は一番の「松陰の申し子」だったのではなかろうか。

海原先生が理想の教師像を言われていて
安易に教師になるな(すぐに教えるな)と言うことと、己の人格を磨いて
教える時には「実際にやってみせること」が大事だと。
まあそこまでやるには不可能な面もあるし、期待された生徒もしんどいもんだけど
松陰先生はそれができていたんですよね。
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by enokama | 2012-08-30 23:47 | 長州藩 | Comments(0)