エノカマの旅の途中

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小松帯刀と大政奉還

後藤の大政奉還にかける動きは「あくまで言論を以て説得せしめよ」との容堂の意向を受け
芸州の辻将曹を説き、薩摩の穏健派を狙う形で小松帯刀をも説得し始めた(→こちら

ここでは最近、刊行された 人物叢書「小松帯刀」高村直助(吉川弘文館)を中心に参考とします。
小松の久光からかけられた期待と実績。また外国通商や産業振興など開明派の五代才助と結んだ
斬新な経済政策実行。慶喜や芸越と言った幅広い交流の一端がよくわかる好著であります。
その一文で

教科書レベルの通説においては土佐藩は幕府延命のための「公武合体」の立場。
(僕自身では容堂は「幕府廃止」ってことも容認していたと思う)
薩摩は「討幕」の立場で対抗し、まず前者が大政奉還で先行するが、後者が巻き返して討幕に成功する。
と言うのが幕末維新の筋書きであろう。だとすると、大政奉還と討幕の密勅に唯一関わった帯刀の行動を
どう評価するのか。もっともこのような二項対立を前提にすると、薩長「軍事同盟」をお膳立てする一方で
大政奉還を唱えたとされる坂本龍馬についても同様な問題が生じることを指摘しておこう。



10月8日、土佐・芸州の大政奉還建白提出を受け
京師視察のため上洛した長州・広沢真臣と芸州・植田乙次郎を交え
小松・西郷・大久保、品川弥二郎、芸州・辻将曹らの三藩会談が行われ
改めて「三藩出兵」の方針が再確認される。
芸州にも出兵をためらう動きがあり、西郷・大久保らは「大政奉還」を容認しながらも
(すでに大久保自身が後藤象二郎に会って方針を認め、西郷・大久保連名での承諾返答を以て
土佐は建白を提出している)一方の次善の策として進めることとなる。

大政奉還を巡る各人の思惑は、土佐の後藤が「あくまで兵威に頼らない言論で」
芸州の辻が「建白の動向を見ての慎重な出兵」薩摩の小松が藩内の状況もあって
「実力行使を押さえつつの威力的な出兵」と分析されています。
現代人にとっては坂本龍馬に代表されるような「平和革命」との受けがよくって
理想とされ、伝えられている。
でも当時の認識ではペリーやプチャーチンにしろ艦隊を率いた「威圧」を持った外交であり
維新後の北方ロシアや台湾・朝鮮との外交問題も「兵力」なしでは進まない時代だった。
無力な清政権に対し、「アヘン戦争」に代表される武力でズタズタにされた先進各国の行動が
今日の中国の「軍事力こそ力なり」とのトラウマになっているわけで
尖閣諸島に対する武力容認の中国世論(ある意味、幕末の攘夷論も「中華思想」的なものがあったが)
にもつながっているわけです。
「9条」でくくられた教育を受けた世代が大半の今の日本国民には、理解できないのでしょうがね。
だから小松や坂本も決して「絶対に戦争を望んでいなかった」わけでなく、場合によっては当然ととらえていた。
そんな中で純粋に「武威を用いるな」との容堂からの困難な命題を受けながら、時代を動かした後藤象二郎が
「龍馬の手柄を横取りした」呼ばわりされる不当な評価を受けるのが理不尽だし
もっと評価されるべきだと思うんですけどね。。。

しかし翌日、長州の福田侠平が急ぎ上洛し、予定では9月25日ごろの予定だった薩摩兵の到着遅延に
伴う理由で(奇襲の意味がなくなった)三藩出兵計画の中止を伝えた。
(結果、10月6日になっての到着となった薩摩兵は計画の撤回で、三田尻に留まることを余儀なくされた)
このことで長州の不信を買うことになった、在京の小松・西郷・大久保はさらなる決意を示すべく
薩摩藩主・忠義を押し立てての挙兵上洛策を取ることとなる。
ただこの時期に及んだ出兵では幕府と完全に敵対することとなり、国元の反対も根強い。
この国元の決断を説得する最大の武器となったのが「討幕の密勅」であり
小松は西郷・大久保とともに大政奉還を見届けた後の10月17日、薩摩に帰国する。
そして12月になって薩長芸の三藩出兵上洛が実現。
「王政復古のクーデター」となり、武威を背景(まあ当然のことだが)に会桑勢力の追放・長州の復権へとなる。

(関連記事→その1その2その3
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by enokama | 2012-08-14 23:25 | 薩摩藩 | Comments(0)