エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

適塾門下生~あまり知られていない実力者編

適塾の門下生については橋本左内に始まって、所郁太郎や大村益次郎・佐野常民と言った
有名どころのゆかりの地などを紹介してきました。

ここからは次の段階としてあまり知られていないけど、凄い功績を残した人たちを
紹介して行きたいと思います!



柏原学介(のち学而・がくじ)

父が高松藩医で屋島の出。嘉永7年(1854)19歳で入門・文久2年(1862)に塾頭を務めた。
江戸へ出て奥医師・石川桜所(良信)に入門。のち一橋家から召し抱えたいと、高松藩に要請があり
本家筋の水戸藩つながりもあって、徳川慶喜の侍医となる。
禁門の変の際には慶喜に従って従軍し、騒擾が起こって近侍の隊列が乱れた時にも学而は唯一人慶喜の側を離れず、太刀を抜いて防禦したので後に慶喜は学而に小刀を与えた。
そして傷病兵や焼け出された市民の救護にあたり「病者貴賤大小の論なく」と施療病院の設立を説いた(「JIN」での仁先生のモデル的な面があったと思います)

慶喜の傍にあって、おそらく医事面以外でも、その人脈を生かしての折衝の役割があったと思われ
(適塾出身者でも政治の道に進む例が多かったように)同門で同時期、共に慶喜の侍医として仕えた
高松凌雲ほどの知名度はないものの激動の時代を支えて、維新後も付き従って静岡で開業。静岡での医学界の発展に尽くす。
ここでも貴賤貧富の差別なく診察に当たり、治療費も一切気にせず名医と謳われた。
ちなみに異例とも思える8年(在籍平均は約2年半)と言う、長い適塾生活の内容はあまりわかっていないとのこと。
維新後、学而は適塾同門で後輩の所郁太郎の手紙を十数通を持っており、井上馨の依頼を受けた
福沢諭吉を通じて譲り渡した。そのお礼として井上から揮毫が贈られようとするが
「井上が何だ。今は時流に乗った顕官かもしれないが、そんなものを掲げておくほど俺は未だ耄碌して
おらん」と断ったという逸話も残っている。
変わったところでは「牛病新書」と言う牛の病気の治療法を訳した書もあり、物理学・化学・地理学と幅広く著作を残している。
兄の謙益も同時期に適塾入門。高松藩医となり(学而の娘のとしを養女とし、のちに婿を迎えて柏原家の跡を継いだ)
維新直後に来阪したボードウィンにも師事し、郷里で高松医会を設立している。


弘田玄又(げんゆう)

幡多郡下田浦生まれ。
父は土佐藩医で種痘の先駆者で土佐の中心人物であった。
嘉永3年(1850)入門し、約1年在籍。中之島の漢方塾・合水堂でも学ぶ。
適塾の目と鼻の先にある合水堂とは犬猿の仲とよく言われることだが、実は両方の塾で学んだ例もいくつか見られる(合水堂での華岡流外科手術の習得目的もあった)
のち家督を弟に譲り、山内容堂の侍医。
戊辰戦争で板垣退助指揮下の土佐軍に従軍し、傷兵の治療にあたり記録も残しているが
日本での初期の実例である「クロロホルム麻酔」を行い、華岡流の腕を如何なく発揮している。
このころ戊辰戦争で各地の負傷者の治療に当たっていた英国人外科医・ウイリスにも教えを受けている。
維新後は陸軍軍医で姫路に移り住んだ。


久坂玄機

長州(萩)藩医(道三流と言う漢方医)の出で久坂玄瑞の長兄。
京都・長崎遊学後、洪庵に望まれて弘化4年(1847)適塾入門。翌年には塾頭となる。
嘉永2年(1849)萩に戻る。村田清風の信任も篤く、このころ開かれた医学館(のち好正館)都講として
蘭学を講じ、また藩内初の種痘に向け、同年秋に青木周弼・赤川玄悦とともに「引痘掛」となり
藩内で初めての種痘を行った。時の実力者・村田清風の信任も厚かった。
弟の玄瑞は「他に拘束されず、独立していて、才気が衆人よりかけ離れている」と評し
吉田松陰は「玄機は今の玄瑞の兄にして、其志気玄瑞に比するに更に超遇なりと道太(中村九郎)
清狂(僧月姓)常に余に語る。唯余其人を一見せず、以て憾とす」と生前に会えなかったことを惜しんでいる。

蘭書の翻訳では、種痘関連の他に「海軍砲術」「和蘭記略」を著し海外情勢を伝え、海防の急務を訴え
勤王僧(海防僧とも言われた)として知られた月姓とも親交を結び、影響を与えた。
嘉永7年正月、ペリーの再来航に関し、藩主・慶親の命を受け、藩に対して海防策も献じるが
2月27日、志半ばで急死。享年35歳。


東条英庵

長州萩の医家の出。
青木周弼塾・長崎遊学後、弘化元年(1844)から適塾に1年間在籍。
江戸に出て川本幸民・伊東玄外に師事し、医学・蘭学・兵学を修め、弘化4年(1847)には萩藩江戸藩邸
にて西洋書翻訳用掛となる。
ペリー来航翌年の安政元年(1854)には相州宮田守備の萩藩付軍医として派遣される。
そのころ浦賀奉行所にて西洋兵営及び蘭学の講義も行っている。
この縁で翌2年、海軍(造船)修業に向かう桂小五郎に、浦賀の中島三郎助を紹介している。
安政3年、新たに幕府が設置した「蕃所調所」教授手伝「軍艦操練所」教授など歴任、幕臣に取り立てられる。
安政6年(1859)には西洋学所師範・松島剛蔵とともに萩藩医学校・兵学校の整備を行う。
天下の名だたる開明家に師事し、蘭学から技術畑まで幅広く活躍したが
幕臣となっていたため不和となった長州との縁は切れ、幕府瓦解後は徳川家の駿府移封と共にし
当地で教鞭を取っている。のち木戸らの推薦もあって官途への道もあったが実現せずに
明治8年、55歳で亡くなっている。
おそらく英庵の後を追うように、幕臣の道に進むかもしれなかった大村益次郎(村田蔵六)を長州に
呼び戻したのも、桂の思慮があったかもしれない。

[PR]
by enokama | 2012-08-07 22:54 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)