エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

高杉晋作の挙兵と長府藩の動き

先日平四郎さんの著作について紹介しましたけど
言葉足らずの点があったので書いておきます。

こちらは平四郎さんも本文に書かれていますが
萩藩が馬関周辺の直轄地化を画策したことで、最終的に長府藩側に有利な条件が出されたにも拘らず
これを断固として拒否したのは「支藩」と言うのは、盲目的に本藩に従うということではなく
藩祖・秀元以来200有余年、この要地を守ってきたという自負もあるし
対等な立場で言うと、どの藩でも武門の誇りにかけて領地を守るとの意志が出るのは当然でしょう。
それと「防衛上」の理由もあったんですが、一連の元治元年の四ヶ国艦隊との交戦にしても
威勢のよかった萩藩が無様に逃亡した例もあったので、藩士や住民共に
完全に防衛を任せることへの不安もありました。



住民にしても、当初は普段威張りちらしている武士が戦争をするのが当然とばかりに
ただちに避難し傍観していたものの、その武士の体たらくぶりが失望感となって
また住民自身に危機感を植え付けた面もあった。
砲台のあった前田では、実際に外国に焼き払われたほどの被害を受け
「兵士は村を守ってくれなかった」との声もあがった。
のちに萩・長府藩、また七卿からの見舞いが出たが、公式な謝罪などはなかったとのこと。
ただ八月の止戦講和後は、馬関港への外国船の出入りも可能となって
事実上の開港状態に近いものとなり、その後の商人たちは外国人とも商魂逞しく付き合って行く。


高杉晋作の元治元年末の挙兵は以前にも書いたが
「征長軍の解兵」と言った外的要因が取り払われたこともあり
一般的に、その諸隊の快進撃と言ったイメージで「俗論党政権」の打倒と思いがちだが
年が明けて一進一退となった時点で(山縣の慎重な動きでの対立もあった)萩で動きが起こる。
中立派と呼ばれた藩士たちが、内戦中止を求め「鎮静会議員」と呼ばれる200人余りの勢力ができ
藩の菩提寺である東光寺に入り(東光寺党)のち清末候・毛利元純の仲介を求める。
そして1月23日には政府軍(俗論党)の撤兵が決まり、1月末には椋梨藤太ら藩首脳の更迭が行われ
萩を目指していた各諸隊にも伝えられ、完全に停戦状態となった。
「鎮静会議員」の思想的には正義派に近いものとなって、ぶれる萩藩主・敬親の下ではまとまらないこともあり
ここに清末・長府の支藩とともに主導権を取り、2月12日に萩城に長府・清末兵700人、鎮静会200人が入り
敬親に俗論派政府員の徹底更迭を進言、この動きを受け諸隊も東光寺に入り、圧力をかけた。
そして2月17日になって、三支藩の家老・要人を召して、23日に長州藩の「武備恭順」の方針が確定、布告した。
椋梨藤太一派は、前年に征長総督府との交渉に当たった岩国吉川家(三家老四参謀の処分を進めた)
を頼ろうと亡命を図り逃亡するが、津和野藩に捕らえられ萩に送還され、のち処刑されている。
高杉晋作は俗論派追放に成功したものの、ますます諸隊の勢力拡大に伴う従来の封建制のゆがみと
今回の鎮静に当たった萩との調和を図り、城下家禄家臣中心の干城隊(旧鎮静会員で成立)を諸隊の上とし
指令系統も藩庁ー干城隊総督ー諸隊総管とする構想を示している。

ここでは奇兵隊を追い出される形となっていた赤祢武人の動きもあるが
翻意にしていた長府藩士・時田少輔と図り、長府候・毛利元周の出萩と周旋建議を求めてた話がある。
また土方久元「回天実記」の引用でよく書かれることだが
二月八日に白石正一郎方で 長府藩の原田隼二・井上(時田)少輔・大庭伝七・三好内蔵助(家老・三吉周亮)
薩摩藩の吉井幸輔、土佐浪士・中岡慎太郎と土方久元(→関連記事
と薩摩を代表した吉井を主賓とした会合が開かれ、薩長融和に向けた動きが始まっている。

このころ、一般的に言われる長州の流れを長府が主に担っていて、さらに完全に幕府に従うのではなく
恭順しながらも対抗できる体制(武備恭順)その延長にある雄藩・薩摩との提携と
常に先んじた動きを見せているのがわかる。
赤祢って人は山縣有朋の執拗な中傷や功績のもみ消しもあって、マイナスイメージばかりが伝えられて
史料もそれほどないようだが、ポイントで重要な事柄に関わっているようだ。
赤祢にしろ、長府のことにしろ、まだまだ歴史の裏側がありそうです!

内訌戦でも五卿の受け入れを決めた長府の動きが貴重だったし
高杉にしても世話になりっぱなしだったようにも思うんですが(白石正一郎も清末だし)
こののち本格的な下関開港に向けて、高杉自身が馬関の直轄を言い出したとの情報が流れ
また藩内にいられなくなってしまいます・・・

(主な参考文献)
「幕末長州藩の攘夷戦争」 古川薫
「高杉晋作」 梅渓昇
「高杉晋作と奇兵隊」 青山忠正
[PR]
by enokama | 2012-08-02 23:13 | 長府藩・小倉藩 | Comments(0)