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エノカマの旅の途中

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築地~日本海軍発祥の地

今週のブラタモリが佃島に行くようなので
以前に行った築地~佃島あたりのレポを今日は書きたいと思います。

まずは築地本願寺からさらに東、隅田川の勝鬨橋の西詰のあたり
築地六丁目の交差点付近、築地市場駐車場前にあるこの看板ですが調べてみると
結構、幕末期に重要な場所だったんですよね。



かちどき(勝鬨)橋
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昔は開閉橋だったとか→こちら

築地6丁目
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案内板(地図上の赤マークの位置です)
築地~日本海軍発祥の地_f0010195_2334599.jpg


一般の人で日本海軍の発祥はここと勘違いする人が残念ながら多いらしいです。
だから、この神戸の施設の閉鎖が決まったことで「幕府は守旧派で閉鎖的」ってことで書かれてしまうことも
あるわけです。あの大河でもそうでしたよね・・・
まあ、しっかり石碑を立ててしまって、後世に伝えてしまうってことも
勝海舟らしいとも言えるわけなんですがね。
幕府の今の日本政府とは比べものにならない外交術と、開国に伴う近代化・門閥をある意味崩してまでの
実力本位の人材育成。
評価される面は多いと思うんですが、敗者や過去ってのは後世になるとすっぱり否定してしまうのが
日本伝統の一面にもあるんでしょうが、そのあたりを正しく伝えるってのが「真の歴史教育」って思うんですがね・・・


ペリー来航以降、防衛力強化の必要性を痛感した老中首座・阿部正弘によって安政元年に
武芸訓練機関である「校武場」設立が構想された。
このころ各地で相次いだ震災の対応等もあって、計画は中々進まなかったが
築地本願寺から、さらに浜側「鉄砲洲」と呼ばれる土地に1600坪の敷地を持つ「幕府講武所」が
主に剣術・砲術・槍術の武芸訓練機関として、安政三年(1856)四月に開場した。

この設立には剣豪で知られた男谷精一郎の建白がきっかけとなって、剣術師範では直心影流の男谷
心形刀流の伊庭秀策、鏡新明智流の桃井春蔵、山岡鉄舟などの剣豪も名を連ね
砲術師範には高島秋帆、江川英敏と言った第一線級の学者、男谷の従兄弟でもある勝海舟に
村田蔵六(大村益次郎)も名を連ねていた。
西洋式調練の一方、槍術、騎馬訓練と言った日本古来の調練もあり、剣術では各流派師範が入り混じって
「流派・道場の枠に捉われず」として実力主義の試合を中心に行われた。
夏場には水練も行われ、実に幅広いカリキュラムが組まれていた。

そして翌安政四年四月には、航海術・海上砲術の講習やオランダから購入した軍艦の運転実習を
行う目的で軍艦教授所(のち軍艦操練所)も講武所内に設けられた。
先立って設立されていた「長崎海軍伝習所」は、この日本人による講師陣の育成も目的の一つで
伝習所卒業生らが中心に講師となってスタートしたのである(長崎伝習所にもいた永井尚志が総督)
こちらの操練所と長崎には藩単位で、多数の藩士を学ばせていた佐賀藩の三重津海軍所が本当の
「日本海軍発祥の地」と言えるでしょう。

そして万延元年(1860)に講武所は神田小川町に移転し、この地は軍艦操練所の専用施設となった。
講武所は、のち幕府陸軍所に再編成されて行く(現在のJR水道橋駅の南側一帯で、日本大学法学部
図書館前に標柱が立っている)
元治元年(1864)三月、火災で焼失するが南隣の浅野家(芸洲)下屋敷に仮移転後、再建を果たす。
なお、この空白のゴタゴタをついて勝海舟は「東西海軍局構想」として関西での海軍操練所構想と
講師陣の引き抜きを画策し、将軍・家茂に直談判の上「神戸海軍操練所」の施設ができることとなる。
その神戸の施設には薩摩人が多数入り、坂本龍馬らのちの社中メンバーのグループも形成された。
またこの築地時代から勝は彼の私塾生を盛んに出入りさせていて、神戸でも「操練所」と勝の私塾の
解釈があいまいで、海軍のメンバーからは「公私混合」的な面も批判されていた面も多く
孤立していた面も多いと言う。
まあ、佐藤政養や近藤長次郎のような武士ではない層からの人物も出しているし
評価される点もあるかもしれないけど、公費の施設ってことを考えると理解されない面も多かったでしょう。

慶応元年(1865)七月には海軍奉行が置かれ「海軍所」となり強化されるが、翌年に再び類焼。
今度は浜御殿に移転をする。
跡地には慶応三年~明治元年にかけて築地(現在の聖路加病院周辺)に外国人居留地が作られることとなり
一方で外国人向けのホテルとして、小栗忠順の興した日本初の株式会社とも言える「兵庫商社」の
事業内容にもある資金計画を以て、日本初の洋式ホテル「築地ホテル」が建設された
(こちらが詳しい→清水建設のページ
ただ残念なことに明治五年、こちらも火災で焼失してしまう。

明治になって政府は築地を海軍の拠点として整備し、旧尾張藩下屋敷の跡地(旧海軍操練所跡と
浜御殿の中間あたり)に海軍本省が置かれ、築地ホテル跡には海軍兵学寮など関連施設が置かれた。
時代は下がり、関東大震災後にこのあたりは中央卸売市場として、日本橋の魚市場が移転してきて
現在に至る・・・

また海軍本省跡のあった築地市場の一角には、海軍卿旗が掲揚された「旗山」の跡があり
水神社として祠が建てられ「旗山」と書いた石碑が立てられています(こちらもブラタモリでやってました)
文字通り、築地こそが「日本海軍発祥の地」なんです!

後編は佃島です・・・
by enokama | 2012-04-03 23:23 | 江戸散歩 | Comments(0)