北垣国道と生野義挙~挙兵決定と長州の同志
八一八政変と大和五條の挙兵に苦慮する長州人らと協議を重ねていた。
窮地に追い込まれた在京長州人からは、一日も早く「大和義挙」の応援を図るべきと
農兵を利用した「但馬義挙」の提案がされ、すでにその意思を持った平野国臣は但馬に下っていた。
北垣は「一年は農兵の養成にあてたい」との意見を述べ、但馬有志の大勢も同様だったが
のちに押される形で「烏合の衆」とも言える未調練で寄せ集めの強引な農兵の招集は、その杞憂の通り
「まったくの瓦解」と北垣が述懐するほどの失敗に終わったのである。
九月十九日の第二回大会議では早くも大和義挙に呼応した「挙兵」と決し、平野・北垣らは長州の同志
獲得のため長州に赴くこととなる。
九月二十八日、平野・北垣らは三田尻に入る。
ただ、すでに大和の天誅組はその前日までに吉村・藤本・松本の三総裁が相次いで戦死し
「大和義挙への応援」と言った、この挙兵の名分はすでに失われていたのだが
まだ彼らには伝わっていない・・・
そして七卿に会い挙兵の意志を伝え、七卿の一人・澤宜嘉を擁することとなる。
平野は山口に赴き、長州藩の全面支援を求めるが、藩庁では慎重な態度を取り
同行者は脱藩浪士では戸原卯橘(秋月)高杉晋作とも親交の深い藤四郎(福岡)
多田弥太郎・高橋甲太郎(出石)ら16名。
そして長州藩の有志として河上弥市、白石正一郎の実弟・廉作ら十一名。
河上は弱冠21才にして第二代奇兵隊総督であったが、この挙兵を成功させた上で奇兵隊を始めとする
長州諸隊を「討幕」に向かわせ結集させようと、この農兵の実効性を自ら確かめたかったのかもしれない。
ただ東上の途で大和破陣の報が入り十月九日、姫路・飾磨において平野・北垣らは中止を説き
澤卿一行には勤王派の強い因州潜行を説いた。
ただ南八郎と変名していた河上らの長州有志(少壮派)は決行を主張して承知しない
そして陸路を生野へ向かい十月十一日、延応寺に沢卿一行が入る。
生野の町が見渡せる高台にある延応寺
そして陣容を整えた一団は十二日午前二時になって生野代官所を占拠する。
川上代官は出張中で、五條とは違って無血での出来事であった。
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