頼山陽と水戸藩士たちが眠る~東山・長楽寺
azatoさんのブログ→aunn
以前から土佐の幕末史を書いておられて
今回は「武市半平太の実像」について、わかりやすく書かれていましたので(→こちら)紹介させていただきます。
僕も「龍馬伝」の描き方が酷く、その話に乗って湧いて出てきた「半平太批判、以蔵擁護」論者には
憤慨したもんですが、その時に書いた記事は正直、感情が入りすぎてうまく説明ができなかったかもしれません(反省!)
(「土佐藩」のカテゴリを少し遡ったら記事は出ます)
皆様には「半平太の実像」について、ぜひ正しい認識を広めていただけたら嬉しく思いますので
よろしくお願いします!
霊山に行く前に「京の冬の旅」で東山・長楽寺が「平清盛」関連で特別拝観していると言うことで
行ってきましたレポです・・・
長楽寺は円山公園東側にある天皇家ゆかりの古刹。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家の人々は女子供までもが尽く入水し、その多くが亡くなったが
その中で清盛の娘・建礼門院は助け出され、京に戻り出家し、この寺に入った。
安徳天皇の直衣で作られた仏具の「幡」は、1000年も前の繊維が残っていることはまずなく
かなり貴重なものだそう。
安徳天皇は天皇と言ってもまだ少年の肖像で、無邪気に遊ぶ姿で書かれている何とも言えないものでした。。。
境内にある建礼門院の供養塔
明治維新になって、円山公園の建設のためにさらに小さくなった(龍馬と慎太郎像あたりも境内だったろう)
そして、徳川慶喜の実弟・松平昭訓(京に上っていたが16歳で早逝→関連記事)の墓や頼山陽の墓があるため
特に元からの水戸藩菩提寺だったと言うことでもないようだ。
上に上がって行くと原市之進や鵜飼父子(一族)の墓所。まっすぐ外史橋を渡ると頼山陽らの墓所。
「尊攘」は烈公・斉昭の文字
この一つ上(一番高い場所)には松平昭訓墓所。
孝明天皇の密勅を水戸に運んだとして「安政の大獄」での主犯格として井伊直弼の憎悪を受け、斬罪に処された(息子は獄門となった・・・)
京都で活躍した執政・大場一真斎の墓がある
原市之進墓所
京都にあってたとくに将軍になってからの慶喜をよく支えた人物で、薩摩の重鎮・小松帯刀との折衝にも当たるなど幅広い人脈があった。
慶応3年の「四候会議」(→こちら)で神戸開港が決まり、計画を進めるところ
反対派攘夷論者の幕臣(このあたりが慶喜の立場の微妙さが覗える)らに暗殺された。
黒幕は二舟(高橋泥舟・山岡鉄舟)とも伝えられています・・・
結果的にこの暗殺が幕府側に関してはマイナスに動いたともいえるかもしれない。
頼山陽墓所
水戸絡ではなく(東山の風景を愛した)この地に葬ってほしいとの山陽の遺言でこちらにお墓があるそう。
結果、山陽の影響で「尊攘志士」が多く出ることになったことでの因果もあります。
頼三樹三郎墓所
こちらも安政の大獄で亡くなった志士。
橋本左内同様に罪状が「遠島」のところに付箋が張られ、死罪となった由。
江戸での墓は南千住回向院にあったものを、吉田松陰の改葬にきた長州藩士の手によって、三樹三郎の遺骸も松陰神社内に移された。
(ちなみに同所にあった橋本左内墓も福井藩士の手によって、現在地・福井市左内町の墓所に改葬されている)