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エノカマの旅の途中

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福井藩記録から見た禁門の変~堺町御門の長州兵

福井藩(越前藩)に関しては藩主だった松平春嶽、その側近・中根雪江
利け者の能吏で橋本左内とも近かった村田氏寿の手によって、明治維新後に幕末の記録をまとめた「再夢記事」「丁卯日記」「続再夢記事」と言う貴重な幕末史料があります。
今回の福井行きでは、それらの史料が図書館に開架であったので(全部で10冊ほどある)ほしい記事が手に取って短時間で確認できコピーできたので、本当に足を運んだ甲斐があったなと思いました!
一番知りたくって、それも詳細に書かれているのが慶応3年の大政奉還~王政復古の流れでこちらはじっくり読み込んで(なぜかこのことが書かれている「丁卯日記」の部分は文字が小さくて多い)流れを知りたいと思っています。


今日はその中から、禁門の変で福井藩が護った堺町御門での戦闘の話で(関連記事→こちら
福井藩側から見たその記録です!



元治元年六月中旬長州の兵士多人数兵器を携へて入京(中略)
一手伏見に一手嵯峨に一手山崎にに屯集しけりさて此兵士等其主毛利家の昨年以来入京を
禁せられてあるを遺憾に思ひ其禁を解かれむことを歎願するため登り来つるとの事なりしか其挙動は
日毎に兵器弾薬を屯集所に運ひ旦夜中所に笧を焚くなと(中略)
辰の上刻頃軍監村田巳三郎(氏寿)各兵の持場巡視中丸太町に於て柳之馬場通より弾薬と思しき荷物を
運ひ来り鷹司邸に入らむとする躰を見認め何方の荷物なりやと尋問せしめしに長藩のなりと答へければ
直ちに指揮して人夫を蹴散らし其荷物を差押さへしめしに績て幾多の長兵押来り或鷹司邸築柵を乗越え
邸内に入らむとしければ我兵は透かさず大砲小銃を打出し互に烈しく打合ひける中我打出したる大砲に
勢を挫かれ・・・崩れ立遂に逃亡せりされと長兵の尚近辺称か商家に潜み居りし者ありて(中略)
堺町御門際及ひ九條邸五條邸の築柵際より(鷹司邸と)狙撃互に打合ひ(中略)
敵兵田村育蔵那須俊平武田次郎原盾男等の首七級を得たり

 
当初、長州兵らは堺町御門からの進入を図ったが、越前兵の守りが堅固で打ち破ることができず
鷹司邸の生垣を乗り越えた上で邸内に入り、すでにこの日の早朝から邸内に入っていた数十名と合流。
そして門を固めていた越前兵と、鷹司邸内の長州兵(名を見ても土佐らの浪士も含む)との撃ち合いとなるが
越前側は会津の大砲を借り受け(会藩士・野村佐兵衛が曳いてくる)表門より討ち入り
その後、邸内から火の手が上がる。そこで焼け落ちる前に分捕りした武器道具の姓名の中に
入江九一の名があったが、その他邸内にて二十余名の屍を見るが多く焦げ爛れていたと言う。
福井藩記録から見た禁門の変~堺町御門の長州兵_f0010195_00525834.jpg
福井藩記録から見た禁門の変~堺町御門の長州兵_f0010195_00532389.jpg
文中に名があり身元が分かったとみられる入江と那須俊平、原道太、田村育蔵ら八名は
越前藩の菩提寺でもあった上善寺に葬られ「長州人首塚」と伝えられています(→こちら
いつもよく言ってるんですが「久坂の首は・・・」って話にもなるんですが、上記の記録で火事になる前に
討ち取られた者の身元はわかって名を記し葬ることができ、久坂の遺体は焼けてしまってわからなくなってしまったのかなとも思います・・・

ちなみに越前藩兵を指揮していた軍監・村田巳三郎こと氏寿はこの戦いで重傷を負っています。

(追記、情報ありがとうございます)
堺町御門、越前藩の守護勢で名の知られたところでは
遊撃隊長の毛受(めんじゅ)鹿之助(洪・ひろし)、堤五市郎(正誼)、青山小三郎(貞)
橋本左内と同年で友人だったと言う、堤は那須俊平に危うく討ち取られそうになり
村田は両足を撃ち抜かれ、心臓の上に止まっていた弾を手術で抜いたという本当に重傷を負っています。
それだけ長州勢の攻勢が「決死の覚悟」で凄まじかったと言えるのでしょう。。。

堤・青山の両人は、この戦いの後「長州藩処分」(→こちら)に赴く西郷隆盛に
大坂に滞在していた幕臣・勝海舟との対面を勧めています。
春嶽は、長州に征長総督として赴く尾張の徳川慶勝、副総督となった福井藩主・茂昭と共に
長州には「寛大処分」(当然それなりの処分は求めるが激しい内戦は回避したい)で臨むよう望んでいたと言われます。
そこで堤と青山、福井藩とのパイプが強い西郷の親友・吉井幸輔の同席立会の上で初めての西郷・勝の会談が実現しています。
よく語られることですがこの会談から、大きな歴史の転換点となった部分も多いでしょう。
維新後、福井出身者は藩閥に阻まれ、新政府に出仕しても、辞して帰国する者も多かったとされますが
堤・青山はその中で出世を遂げ、男爵となっています。
そんな彼らも戦陣にあって生死をさまよった時期もあったし
「命がけ」で維新にこぎつけた人物が役人たちの中にも、たくさんいたのでしょうね。
by enokama | 2011-11-22 23:57 | 福井藩 | Comments(0)