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エノカマの旅の途中

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近江屋事件から高台寺党掩殺と薩摩藩への駆け込み

慶応三年当時、土佐藩在京参政の一人であった神山左多衛(のち郡廉と称し、新政府に出仕。
各地の県令などを歴任する))の十一月の日記が「陸援隊始末記」に載っています。
このあたりは「近江屋事件」を挟んだ、当時の京都の情勢がよくわかるものとなっています。
(関連記事→こちらこちら


十一月十四日
藩土芸ヲ会藩ヨリ討タズンバ有ルベカラズト企コレアルヤニ粗聞ユ。石精(石川清之助)ノ手ヨリモ聞ユ。
 土佐も芸も「討幕勢力」と見る動きが、会津に見られたとのことでしょうか。「大政奉還」は討幕派の陰謀と
 する記述は、佐幕側・討幕側問わず結構ありますよね。

十一月十五日
町御奉行ヨリ今日宮川助五郎ヲ受取、河原町御邸牢屋へ入候事。
松力へ行、否ヤ我宿ヨリ家来申来ルハ、才谷梅太郎等切害セラレ候由。直二藤次下宿へ行、諸事手配等
取扱致シ候事。
 (福岡)藤次下宿は近江屋の隣で、こちらで事件の対応に当った。坂本即死、石川疵受、家来深手也とある。

十一月十六日
 白川藩邸(陸援隊屯所)の新選組スパイらしき人物を拘束し、河原町藩邸牢に入れる。
 白川の浪人(陸援隊)には猥らな挙動を慎むよう伝える。
 大久保一蔵入京。

十一月十七日
海援隊入七人入京中ノ所、新撰等ヨリ穿鑿甚シク、宿屋へ泊るモ宿屋二断り、身ノ置所コレナク、依テ白川入焚出増ノ事只次郎(森脇唯次郎)ヨリ伺出
 入京中の海援隊士を保護するべく、白川藩邸に入れるよう申し出がある。このころは河原町藩邸で飯を
 炊き出し配達をしていた(副食物は隊士の自弁)ので、その数の追加も依頼している。

十一月十八日
御陵守リノ新撰ノ内(いわゆる新選組から分離した御陵衛士のこと)阿部十郎二今一人河原町御邸内へ駆込・・・(中略)外二タヨル所コレ無ク、此方様へ御囲置キ下サレタク・・・
右駆込来タリ候時、(寺村)左膳(寺田)典膳ノ取り計ニハ、支配頭モコレアルベキニ付、手順相立テラレ
申スベク・・・尚詮議ノ上答へ申スベク云々答へ、帰し候ヨシ
 保守派で知られた寺村らしい冷淡な対応ですね・・・
 おそらく、その処置を気にした討幕派の毛利・谷が後日、二人が薩摩藩に保護されたことを聞き
 この日記にも知らされています。 



十一月十八日、伊東甲子太郎は近藤勇の寓居を訪れ歓談後
帰途途中に暗殺され、その遺体は七条油小路の辻に運び放置された。
そして新選組は町役人を使わせ、御陵衛士の本拠・高台寺月真院に知らせ
「遺体の収容」にきた高台寺党の掩殺を図った。そして七人中三人を殺害した。
毛内有之助、服部武雄、そして藤堂平助・・・皮肉にも「使い手」ばかりが落命している。
その伊東を含めた四人の遺体は、さらに三日間放置されたという。
三樹三郎、加納道之介、富山弥兵衛の3人はその場を脱し、ある場所に駆け込んだ・・・


以下は「京在日記」中村半次郎の記録にも残っているが

十一月十七日
坂元龍馬、一昨晩何者ともわからぬが、無休に踏み込み、もっとも坂元をはじめ
家来ほかに石川清之助手負いのこと。家来と坂元は即死、石川は未だ存命のこと。
しかしながら、右の仕業は壬生浪士と見込みいる。

十一月十八日
山田氏が同行し、土佐藩士岡本健三郎のところへ行き、それより坂元龍馬、石川清之助へ墓参りするところに
土佐藩士高松太郎、坂元清次郎が墓参りにて、同行して帰る。もっとも河原町四条上ルのところの
旅宿へ暫時立ち寄り、帰りに大久保一蔵のところへ行き宿す。

十一月十九日
新選組 三樹三郎 加納道之助 富山弥兵衛
早天に大久保一蔵のところへ来て、拠ん所ない急用ができたので、お目にかかりたくてなどのことを
申し入れるにつき、拙者が御長屋へつれてきて、篤と承ったところ、余儀なき子細であった。
潜伏のことを歎願するにつき、すぐさま大久保氏に申し入れたところ、何れ余儀なき次第なので
召し入れ置くよう取り計らうなどのこと。それにつき、三樹三郎 加納道之助 富山弥兵衛
これらを永山、山田、我、舎弟が同行し、つれて行く。

もう十九日の未明となって
駆け込んだ場所は薩摩二本松藩邸であった。一旦は「夜が明けてから」と入邸を断られたが
猶予の時間がない彼らは、中村半次郎との面会を求め「ここで腹を斬る」とすごみ、大久保邸(御所東側の寓居か?)
に向かい、宿泊していた中村半次郎(桐野利秋)と対面、大久保の了承を得て処置が任され
半次郎の弟・山之内半左ェ門、永山弥一郎らに伴われて、伏見の薩摩藩邸に保護された。
十九日はさらに現場から逃れた篠原泰之進が、また前日に土佐藩邸入りを断られた阿部十郎、内海次郎が保護され、こちらも伏見に送られている。
そしてこの時の伏見行の際、半次郎から毛利・谷へ事の経過が伝えられている。

十八日の阿部、内海は外出先で同志の遭難が伝えられ、月真院~油小路の現場と駆け、現場の惨状を
目の当たりにした。さらに遺体の収容を図るため、御陵衛士拝命の際の支援者だった泉涌寺内戒光寺に行き
当寺で遺体の引き取りをすべく新選組への交渉方を依頼するも新選組には、にべもなく断られた。
そして上記のとおり、土佐藩邸に行くが入邸を断られ、結局は戒光寺で一夜を過ごした。
阿部の回顧録からは翌日十九日はまず、土佐の白川藩邸を訪れている。
御陵衛士と陸援隊の提携のつながりであろうか。
そこにはなんと中村半次郎がいた。二人が土佐藩邸入りを断られたと聞いて心配していたと言い
二本松藩邸に連れられると、そこには別ルートで入っていた篠原がいたと言う。
別の記録では白川藩邸で待っていたのは陸援隊の田中顕助で、そこから半次郎に伝えられたとも
書かれている。


以前も少し書きましたが
御陵衛士と薩摩藩の関係はいろいろ聞いてても、薩摩側からはあまり信用がなかったようです。
そこで伊東は以前の太宰府訪問時から、顔見知りだった陸援隊長・横山勘蔵こと中岡慎太郎との接触を図り
人的交流も行い、慎太郎はいざ京での挙兵時に「農兵の上洛計画」持っていたという御陵衛士の利用も図ったのか?
半次郎は慎太郎とも知り合いだし、その動きは知っていただろうけど
この時のような「匿う」って行動は、「放っておけない」彼の生涯を見ていてもある意味あたりまえの行為
だったんでしょう・・・

このころの伊東・半次郎・慎太郎の動きはいろいろ飛躍して、創作もされていますが
中々面白いつながりだし
書簡等がもっと見つかって、本当のところの動きが知りたいんですけどね・・・
by enokama | 2011-11-20 23:49 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)