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エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎の慶応3年秋~終幕

昨日のBSTBS歴史番組「NO2」で、大岡越前をやっていたんだけど
解説があの童門さん(一人)やった。。。
案の定、目新しいこともないし知った話ばっかり(苦笑)
BSの歴史番組ってコアな人が見るもんだろうし、あの程度だったら地上波のぬるい番組に回せばと
思うんですけどね。
この人だったら知識の限界が小さいし(無駄に範囲は広いけど)話は広がらないですわ。
鈴木健二氏以来の歴史番組を見続けている人だったら、誰でも務まるわな・・・

先週なんか徳川四代将軍のころの話だし、その前は石田三成の側近・島左近!
ようマニアックなところって・・・
たいがいその時は加来耕三さんだけど、今まではぬるいような著書が多い印象でどうかなと思ってたけど
ようさすがに知ってはるなと感心してたんですが、すごい対照的に今回は落差を感じました。。。

それにしても磯田さんを含めたこの3人で歴史番組は回ってる印象なんですけど
もっといろんな人に出てもらって、いろんな多様な意見も聞きたいと思うんですが
テレビ向きにしたらしたで、研究にも差しさわりが出るかもってことがあるのかな・・・

慶応3年10月の中岡慎太郎の動きは、残されている日記が9月で終わってしまっているので細かくはわからないが、まず10日に上洛した坂本龍馬が白川の陸援隊屯所を訪れている。
よく語られる「この通り準備はできた。いつでも起てるぞ」と慎太郎が言い放ち
龍馬が「武力はいかん」との思いを強くし、大政奉還(=平和論と取る見方では)に向けて
「後藤を叱咤激励する」との話が作られ語られることが多いが、 このことから坂本は話し合いによる平和論者
対して中岡は用兵による武力討幕と決めつけることが多いが、果たしてそうなのだろうか。

どうしても龍馬主役の話となると、慎太郎や薩摩の連中が「わからずや」って書き方になっているんだよね。
討幕の密勅で西国雄藩の融合(薩長芸)を図る一方で、幕府と戦った場合の勝算と言うことに関しては
戦力的にまだまだ劣るので(鳥羽伏見では旧幕府側が本来なら普通に勝てたはず)慶喜を軸とした枠組みでの妥協点としての判断も一方で必要だった
その妥協によるぎりぎりの均衡が崩れたのが、庄内藩を中心とした「江戸薩摩藩邸焼き討ち」事件だったわけですけどね。
まあ、西郷の陰謀とかよく言われるけど、前々からいろいろと各地で仕掛けていた工作がタイミングよく功を奏した偶発的なものであるんですが
これはまた「薩摩藩」のカテゴリで改めて触れたいと思います。



12日には、おなじみの淡海槐堂(弘)から例によって、300両を融通してもらい
18日には岩倉具視と連れ立って薩摩屋敷を訪問し、吉井幸輔・伊地知正治と密談を行っている。
これは岩倉の元に入谷昌長と言う人物が知らせたもので、以下は「岩倉公実記」の要約から

大垣藩に井田五蔵と言う人物がいて幕府老中に献策するに
「京にて不意に大兵を起こして薩摩藩邸に火を放ち、その騒擾に乗じて鳳輿(天皇)を大阪城に遷し奉り
西海両道の諸大藩を制圧する策をもって、会桑二藩が同意した」というもので
京都における諸事を督していた(小松・西郷・大久保が帰国中のため)吉井幸輔・伊地知正治に
岩倉は
「一時の浮説にすぎないかもしれないが、前日(十七日)薩摩に向かって下坂中の小松帯刀が
新撰組浪士に執拗に追尾されていたとのこともあるので油断ならない。
十分戒心して不慮の企てに備えて、機を臨みて先発し彼らの謀を伐うではないか」と言い
吉井はそれに対して
「会桑二藩はわが藩に対する憎悪からありえるかもしれないので、もし井田の献策を受け禁裏に迫るが、如き暴挙あらば我が藩寡少ながら八百の兵は皆決死の覚悟で臨み、幸輔と伊地知を以て指揮し禁裏を死守しようぞ」と決意を語ったという。

考えて見れば、かつて長州がやろうとしていたことでもあるし(天皇を力ずくで連れ出すこと)
またこの後におよんで、町に火をかければ民心も離れてしまうので、やはり浮説と見るだろうけど
それぐらいの「大政奉還」と言う事態(それを薩摩の陰謀と見る動き)になったことでの、激しい動揺が
会桑にはあったと言うことです。

会津作家らは「大政奉還」自体には同意してたから、武力討幕に走る薩摩の方が龍馬を暗殺したとかって
書くけど、推進した側での土佐でも大政奉還で乾退助だけじゃなく、後藤らも弾劾するような動きが
あったほどだから、会桑の憤懣はピークに達していたことは十分考えられます(その証拠はいくつもあります)
それは当然のことだし、家訓(武士道?)からして当然のことだと思います。
そう言った状況で「誰かを殺らねば気が済まない」ってことでターゲットになったのが、動きが派手で
目立った龍馬で(入京の際に300人の浪人を率いてくるという虚報が出回ったほど)
巻き添え食ったのが慎太郎だったと・・・
西郷さんは藩(国元)が未だまとまらないし、そんな(龍馬)暗殺に関わる間はないんよね。
その合間に江戸の攪乱の指示も逐一出していたとか・・・ありえないわな。
幕府とまともに戦う戦力をまとめるのにも心もとないのに、実際の戦いに臨めるのだろうか。
それどこじゃないだろうと・・・


暗殺までの慎太郎は、五卿帰洛のこと(それと長州復権問題もあった)にも関わっていたし
会桑との緊張で衝突があり得る時勢で、陸援隊隊務や薩摩駐屯兵との連携
伊東甲子太郎の御陵衛士らとの交流などの役割に入っていたのだろうと思われます。
ちなみに「新撰組に気を付けろ」って言った話は、従来から翻意にしてた慎太郎に向けてのものだったそうですが、龍馬に対しても実際に言っていたとの確証はないようです(市居浩一「新選組と高台寺党」)

そして11月15日を迎えます。。。
(以下も岩倉公実記より)
具視坂本龍馬中岡慎太郎ノ死ヲ聞キ慟哭ノ事

十一月十五日夜凶徒アリ坂本龍馬中岡慎太郎を河原町ノ寓舎二襲・・・(中略)
(香川)敬三馳テ到ル龍馬既二命ヲ落シ慎太郎創重ク流血淋滴タリ同志ノ士聞キ皆来リ集ル慎太郎ハ
敬三二遺囑シテ曰ク天下ノ大事ハ偏二岩倉公ノ之ヲ負担セラレンコトヲ願フノミ子之ヲ岩倉公二告ケヨト
言テ絶息ス敬三袖ヲ濡ラシテ帰リ具視二白ス具視曰ク但何物ノ鬼カ予ノ一捥ヲ奪フ之ヲ哭シテ慟ス

ちなみに続けて岩倉と大久保の間の書簡が記され、大久保はあくまで新選組を疑っています。

また「手代木直右衛門傳」と言う史料には、手代木自身が所司代桑名候の指示として実弟佐々木只三郎らの実行であったと告白しています(会津候を憚って桑名と言っている可能性もあるが)
薩長の連合を謀り、土佐の藩論をして覆して討幕に一致せしたる者としての動機です。
むしろ慎太郎の行動な訳ですが、そこまでの認識や慶喜の真意ってのは伝わっていなかったんでしょうね。
土佐が討幕で固まっていたってこともありえないし。

このあたり中村彰彦氏らはもちろんご存じでしょうが
著書からしてこれらの記録も、すべてでっち上げとか言われるんでしょうかね・・・
まあ、そんな論調で何もかも否定する作家もいるのはいるんですが
それだったらなんでもありになってしまいますからね。

慎太郎年表(→こちら
by enokama | 2011-11-08 23:25 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)