中岡慎太郎と西郷隆盛~西郷の土佐・宇和島行き
慎太郎は本来の「五卿付き」の任務も講義受講や読書、三条実美らとの話し相手と
穏やかな日々を過ごし、英気を養っていた。
日記中で変わったところでは、2月2日に新選組・伊東甲子太郎が訪れたことが記されている→こちら。
また2月には坂本龍馬とともに、いわゆる君主の慈悲による「超法規的措置」として脱藩罪を許され
時勢の移り変わりにつき、必要な人材として両人に接触するようになった容堂の側近らの
とりなしも大いにあっただろう。
19日には大宰府にほど近い、二日市温泉・湯町堺屋に投宿。
しばらくの間、湯治滞在する
20日の記述には「入湯六度」とあり、これだけ入っているとフヤケテしまわないのだろうか(笑)
24日に大宰府に帰り、27日には大山格之助(綱良)と連れ立って、薩摩に赴くこととなった。
大山は大宰府での薩摩の五卿警護(本来、五卿の滞在は別々の場所での閉居であるべき所を
1か所にする代わりに、それぞれ五藩から警護士が出されていた)の中心人物でもあった。
28日、阿蘇を望み熊本城下に出、城下町の繁華ぶりと肥後の平坦広く豊饒肥沃な土地を持つ
豊かさに感心し
30日には薩領・阿久根で名産の焼酎を飲んだことが記されている。
翌月2日に鹿児島到着、大山宅に泊まる。
翌日は吉井幸輔、そして西郷のもとを訪れている。
このころ「四候会議」に関して、在京中の越前・松平春嶽には小松帯刀が説得に入り
一旦薩摩に帰国し、久光の了承を得た西郷は2月13日に船将吉井とともに出帆し
15日には土佐・須崎着。そして高知の山内容堂に拝謁している。
慎太郎の日記に、この西郷の四国行きの詳細な聞き取りが残されていて
よく文献資料として引用されているものである
此度薩候の命を受参りしことにて大隅守(久光)様より被仰ぎ含たる次第も有之大に心配して参たるが
上国の勢具に言上したれば、公御即答に、薩候の御主意尤の事に付、拙者ナド候の御相手には相成間敷候得共
早速上京可致、尚又此方は貴方とは違ひ、徳川家の恩義も有る事なれども、皇国の為め
公論を以て尽力することなれば、地球上より見たる時は矢張公論也。
然れば親藩と言えども今日に至りては可尽事也。いわんや外藩の列に在るをや云々被仰候由。
西郷曰、此度は事不被行と云て御引取りに相成のことにては不相成りと申し上げる。
公素より覚悟也と被仰候由。
後、藤次に被仰しは此度は死を目的とすべきと也。
公又西郷に被仰しは、藤次などが実の尊幕論なりしが、此度上京して諸有志に交りしに由て
大に議論がよく成りたるは、吾もうれしき事被仰、其れにて西郷初めも、胸がぐっと下りたる由
容堂は上京を快諾。「地球上の公論」と大げさな表現を使いながらも、徳川の恩義もあるが
皇国のため公論をもって尽力するとなれば、外藩のわれらでも力になれよう。
西郷からは「今回こそはお逃げにならないように」と念押しされるが
今度こそは覚悟を決めているという。。。
福岡藤次に対しての西郷は「死ぬ気でやれ」とハッパをかけている。
また福岡の意識の変化を喜ぶ容堂の言葉に、西郷はこの主従の決意に胸をなでおろした。
続いて西郷は宇和島の伊達宗城を訪ねるが
宇和島に至り老候に拝謁し御上京の論に及ぶ
候曰、凡事目的立ざれば行き難し
目的は如何と被仰候由、西郷黙して退かんとす。
あまり乗り気でなく疑いの目を向ける、執政・松根図書は容堂の上京の目的を訪ね西郷は
今日の天朝の危機に臣子として決意。かかる御大事に当り、大義名分を以て尽く日に当り
利害得失を論ずるとは合点が参らん。
しかし松根は「財政難」を持ち出し
御執政の御言葉とも聞へず、大義に臨ですべきことに非ず、中々左様のことにては
足下の力にて国を富ますなど思いもらぬ事也と云う。
そんな姿勢では国の大事に臨むことはできないと、松根に迫る。
やがて酒肴が出てきて、西郷に対して宗城は「京に女はおるのか」と聞くが
「そんなことを聞かれても何の役にもたちません。今少し役にたつことをお聞きください」
そして宗城は
その方が左様な事を言い放つ故、仕方のなき男と雑言する云う
然るに先国の費弊を推て、勉強して上京と答に成りし由、頗る曖昧也由。
あまり弾んだ議論にもならなかったようだが、宇和島もこの後決意を固めて上洛することとなった。
この晩、慎太郎は西郷の自宅に泊めてもらった。
鹿児島には10日まで滞在し、慎太郎の来鹿を聞いた同志らとも盛んに会っている。
伊地知正治、村田新八、黒田(おそらく嘉右衛門)、三島弥平(通庸)
三島に関しては「三島卓論あり、吾甚感ず」と褒めている。
5日には薩摩藩自慢の磯製鉄所にて、製鉄・硝子機・木挽等を見る。
9日には島津久光公に謁し、五卿への伝言(東帰の件について)を預かる。
そして、西郷から平戸・大村への今回の同調を求めた遊説の依頼を受けたとされ
腹心の村田新八らとともに10日、鹿児島を立った。
14日には長崎に立ち寄り小曾根家を訪ね、龍馬配下の社中メンバー中島作太郎、菅野覚兵衛と
会っている。
翌日の大村には渡辺清左衛門・昇兄弟を中心とした「三十七士」と呼ばれる尊攘派がいた。
17日に大宰府帰還し、その場には木戸準一郎が居合わせた。
落ち着く間もなく20日には下関に入り、23日にはさらに京都へ向け出発する。