中岡慎太郎と高杉晋作~高杉晋作が伝えた言葉
慶応元年正月、中岡慎太郎は諸隊の陣中にいた。
「五卿動座」と「征長軍解兵」慎太郎が大きく関わった、交換条件の伴う二つの問題が片付くのを
見計らった高杉晋作は、俗論派政権打倒のため前年12月15日、わずかな兵を率い決起。
年が明けて、諸隊を始めとして同調者も増え、決戦の時が迫っていた。
そして1月7日「太田絵堂の戦い」を皮切りに、優性に戦いを進め
やがて長州藩は「正義派政権」となって「武備恭順」の方針が定められる。
10日に慎太郎は高杉と奇兵隊総督・山縣狂介に下関で会い
互いの健闘をたたえあい、今後の進むべき途を論じた。
慎太郎は14日に決まった「五卿動座」に従い関門海峡を渡海、拠点を大宰府・延寿王院に移すも
「薩長融和」に向け、京都への再三の超人的な往復移動を伴う激動の1年を過ごすこととなる。
高杉は戦いが済むのも束の間
「下関開港論」を持って、長府・清末両支藩と萩宗藩の替地を含む計画を立てるが
その急進策に両支藩士は激しく反発、命を狙うものさえ出てきた。
4月、高杉はその危機に、またもや長州を脱し、四国・琴平に隠遁することとなるが
夏には帰還し、対州物産取組駆引方という名目で貿易担当(おそらく海外貿易)の役職で
下関に駐在することとなる→こちらとこちら
このころ慎太郎は論策「時勢論」を著し、高杉をこう評価している→こちら
懸案の「武備恭順」に不可欠な武器・軍艦の購入に関しては
「薩長融和」と絡ませた動きで、薩摩名義で購入、亀山社中が活動し長州に転売
武器の斡旋を取り付けることに成功する。
そして翌年には「薩長同盟」が成ったが、まだ薩摩への不信が残っていた桂(改め木戸)に対し
同盟に反対する諸隊の説得や、薩藩代表者の黒田へのエールなど
桂の京都での対話に向け、側面協力を行っていた高杉の姿もあった。
そして「第二次征長」(四境戦争)となり、この同盟に基ずく動きが有利に働き
薩摩は幕軍には軍を出さず、むしろ援軍を出す準備をしていたほどだった→こちら
桜島丸も「桜島丸条約」に法って、関門海峡の海戦に参加している→こちら
そのころ、戦いに臨む晋作の心情を慎太郎は
「高杉晋作聴取録」として、書き残している。。。
当月初め高杉谷潜蔵蒸気船馬関出発、別に臨で、清(石川清之助)、潜蔵(高杉の変名)に語らしは
近日戦端開け、其の勝敗利否に依り、若し其時他藩の援を頼むなど云う人心はあるまじきやと云う。
潜蔵曰く、天下の向背を計るは平日の仕様にて、今日に至り何ぞ一藩の与廃を以て人に頼まんや。
不肖の拙者一命の限りは御安心くださるべし。。
古より天下の事命ずる者は、大義を以て本となし、決して人を顧みず、断じて志を行ひ、
禍福死生を以て一点の疑惑を胸中に置かざるなり。
只今長州にても真英雄豪傑があれば、二国を守るざるは疎か、此機に出て上を奉じ六十州の大本を立つべし。
然るに悲しい哉、其人もなく、兵も弱く、曖に至り二州を守るも覚束なき位の事なり。
然るに主人父子の心を察するに勤王の微志においては始より少しも違はぬ事なれば
拙者等も其意を体し、恐多くも天朝の事を思ふに実に流締の至に堪ぬことあり。
摂海の開港に付、閣老中夷人との約定の通りにては、来卯冬十二月に至れば
是非摂海を開くるものと見るべし。
其時迄に姦臣の権柄を挫き、朝廷の御威光相立てずば、閣老は横浜同様の開港となり
此迄天朝天朝と申して、外夷等も如何の御威光やと思ひしも、自然悔慢の心を長じ
此位いつまらぬ幕府の為に擁蔽せらるる天朝かと云うやうの事に至りなば、彼是する中機さり
時失ひ、如何程篤志の諸侯ありても、勤王の一事はやまりになるならん。
然るに凡そ物因循するは世上の習にて、来年十二月と思へば決して時期去らん。
拙者等主人の素志を達する事能はず、わずか二州の興亡を私し、此る皇国の大危難を救ひ奉ること
能はず、何の面目か有志に対せん。今日は別近き故、外ならぬ赤心の話と云ひて涙位の談にて終り候事。
六月 清之助覚
この戦いに留まらぬことで(防長)二州で微志を貫きつつも
来年の約束となっている「神戸開港」に対して、六十州の勤王皇国としての一致した断乎とした
態度で臨めるのだろうか。
一藩の浮沈よりも、より高い次元での憂国の心情を表している。
この戦いの終了後、晋作は病に伏せる。
不治の病となって、翌年慶応3年正月五日に慎太郎は見舞ったのが最後で
3月、薩摩からの帰路に高杉寓居に立ち寄った日記では
三月二十一日
晴。谷潜蔵を訪う。病篤不遇帰る。。。
そして、高杉は逝った。
この両藩の同盟で幕軍を破ることができた。
次はさらなる同盟結集を目指すのみ…公卿、土佐、芸州と慎太郎はさらなる行動に乗り出す。
藩閥意識はもうなく「日本人」と言う意識と、開国し外国とも付き合うが国力を付け
対等に付き合うべき国家、政権構想とはなんぞや。
一旦は「大政奉還」を考えた。そして、さらに方向性を探って行くこととなるのだ。。。。
ちなみに創作ドラマなどでは、やたら晋作と龍馬を「ソウルメイト」のように
並び立てる物が多いようですが、実は龍馬が郷土への手紙に「高松新作」と誤記しているように
あまり親しくなかったようです(古川薫「ドキュメント革命児晋作の生涯」より)
また桜島丸(長州名・ 乙丑丸)廻航とさらなる武器の斡旋については、既記のように慎太郎の働きかけと
長崎に詰めていた薩摩の実力者・五代才助の具体的な周旋の様子が書簡に残っています。
(坂本龍馬は伏見近江屋で負傷を負ったため、薩摩・霧島で療養中の事情もあった)
「高杉晋作の遺志を継いだのは中岡慎太郎」
決して過言ではなく、言いきってもおかしくない人物だと思います!
高杉晋作聴取録、戦いに挑む晋作くんの切々たる思いが感じられます。相手が慎太郎だから言えたのかもしれないですよね・・・。
ちなみに時勢論の晋作くん評はカッコ良くて大好きです☆
平尾さんいいですよね!
「新選組史緑」あたりでも相手側(平野国臣や池田屋事件の志士ら)
の調べが多いんで、すごく深いです。
中岡慎太郎の交流をたどると、武市半平太→久坂玄瑞→
高杉晋作→西郷隆盛(吉井幸輔)と一級の志士たちにあたるので
ほんと勉強になりますよね!
慎太郎を知ることは、長州(気分は松門だったので)
を知ることでもあります・・・
「時勢論」はどの人物評もいいですよね。
へたな創作作家なしで、そのままドラマに使えます(笑)
そんなドラマの機会がないのも問題だけど(苦笑)