本間郡兵衛~幕末の庄内と薩摩のつながり
今回、原稿には入れませんでしたが、最後に幕末の庄内藩出身の一人の人物についてこの本を参考に
記事にしておきたいと思います!(→こちらとこちらも参考にしてます)
本間郡兵衛は、酒田・本間家分家の廻船問屋の次男として生まれ
文久二年(1862)約一年にわたって欧米各国や清国を巡遊し(このあたりの経緯の詳細は不明)
西洋諸国の経済発展とその植民地政策を東洋に向けていることを目の当たりに見て、このままでは日本は外国資本にやられる。
それを防ぐには国家としての統一はもちろんだが株式会社を作り、産業を起こし貿易を積極的に行う事が何よりも急務と考えた。
ちょうどこのころ、薩摩藩家老・小松帯刀が英語教師を長崎で求め、同じ成卿門下で薩摩藩に仕官していた石河確太郎の勧めで郡兵衛が推薦され、薩摩に赴き元治元年(1864)に設立された開成所(薩摩藩洋学校。次第に蘭学から英学に改めた)の英語教師となった。
そこで、郡兵衛は洋行で得た知識を生かし「薩州商社草案」をつくり小松に上書した(この草案が彼の生家に残っている)
これは「藩を超えた日本全体の交易を考えた構想」として郡兵衛が、日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料となっている。
小松は大いに共鳴し、大坂に設けてあった薩摩交易の拠点、大和交易方を拡張し(この図面も残されている)
大和方コンパ二―(大和商人も加わっていた・別名「薩州商社」)という株式会社を組織することにした。
このあたりは、よく坂本竜馬の「(亀山)社中」が日本初の株式会社とよくいわれるが
下関では五代・長州の広沢真臣・坂本らの間で「馬関商社」構想もあったので
薩摩の進取家たちに非常な影響を及ぼしたのだと思わる。
元来、日本海側は「西廻り航路」(北前船航路)で経済的な濃厚なつながりがあり
その中でも知られた、高田屋嘉兵衛や銭屋五兵衛と言った豪商も、酒田や下関に拠点を
持っており、政治とは違った付き合いが長く持たれていた(薩摩と越前の関係も従来から経済的な
つながりが、かなり強かったはず)
薩摩もその延長線上で、蝦夷の昆布などを琉球を経た清との密貿易で利益を上げていたこともある。
そのこともあって「カンパニー構想」を大坂・堺を拠点に近江・庄内と全国的に広めるために
(兵庫開港が迫っていたことと、幕府も小栗忠順らが中心となって「兵庫商社」構想もあって
慶応三年(1866)七月、郡兵衛は大和方コンパ二―に庄内・本間家の資本参加を求めるため
二十数年ぶりに郷里・酒田に帰ってきた。彼は本間家から資本を出させるだけでなく
酒田港を東北の拠点としようと計画していた。
しかし帰った時期がまずかった…
幕末押し迫ったころで、庄内藩首脳は十月に「丁卯の大獄」で公武合体派を処罰していたのだ。
薩摩帰りの郡兵衛をスパイと疑い、外出を禁止するとともに、鵜渡川原の足軽目付にきびしく監視させた。
つい目と鼻の先の本間家にゆくこともできず、大計画を抱きながら、何もできなくなり
悶々としていた彼は、ついにたまりかねてある夜泥酔し、薩摩藩から拝領した丸に十の字のついた
紋付羽織を着用して外に出た。そのため目をつけられ、今度は鶴岡の親類・池田六兵衛家に幽閉された。
そして翌明治元年七月十九日、診察に来た藩医が置いていった薬を飲んだところ急死した。
ときに四十七歳であった。これは毒殺されたものとされているが、わかっていてあえて飲んだとも言われている。
そのころ、庄内軍は「東北戊辰戦争」の旧幕府側として唯一と言っていいほど
有利な戦いを各地で進めていた。
そして周辺諸藩の陥落に続き庄内藩が「勝ったまま」降伏したのが九月二十六日。
その場に臨む黒田清隆に対して、本間郡兵衛の名声を聞いていた西郷隆盛は次のように言ったとも伝わる。
「羽州荘内とくに酒田湊は本間北曜先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」
もう少し、あと少し郡兵衛が生き長らえたとしたら
庄内と薩摩、そして酒田の港はまた違った動きになっていたかもしれません・・・