エノカマの旅の途中

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浦賀へ~中島三郎助に弟子入り志願した桂小五郎

弘化3年(1846)のアメリカ海軍のコロンバス号とビンセンス号を撤退させたあと
今度は本当の激震が起こる。
嘉永6年(1853)6月、いわゆる「黒船・ペリー来航」である。
前回とは違う規模の艦隊を組み、文字どおり武力で威圧する勢いでやってきたのだ。
この時、父・清司から代替わりで与力に昇進していた(世襲ではないが、慣例のようになっていた)
三郎助は「応接係」として、最前線での交渉にあたり
久里浜での国書の受け取りにつなげた…
そして9月に危機感を持った幕府は、浦賀での洋式軍艦の製造を命じることとなる。
その中心人物が三郎助であった。

翌嘉永8年(1854)1月にペリー艦隊は再来航して、神奈川にて「日米和親条約」が結ばれ
下田・箱館の開港が決まり、ペリーは下田に赴くが
ここで密航を企て、小船で旗艦・ポーハタン号に近づいたのが吉田松陰だった。
しかし拒まれて失敗に終わる。



松蔭が萩・野山獄に入れられ、講義に勤しんでいたころ
安政2年(1855)の初夏、その紹介を受けた桂小五郎と大坂・適塾で蘭学を修めた経歴を持つ
東条英庵は、船大工2人と共に中島邸を訪ねてきた。
「洋式造船術の大家である中島さんに、ぜひとも弟子入りをお願いしたい」と
押しかけ弟子入り志願をしたわけです!
最初は「自分はただの一与力にて」強く固辞していた三郎助だったが、彼らの熱意に負け
「共に勉強するなら」という客分として、受け入れることにした。

長逗留を覚悟して「どこか部屋の片隅に住まわせてほしい」と言う小五郎に対して
中島家では寄宿させることとなり、漬物を置いていた納屋に床を張って
改造した2畳半の部屋が与えられた。
そして昼間は造船現場での作業の手伝い(船大工は地元の職人に預け、短期の東条は船宿から通う)
夜は三郎助から、アメリカから手に入れた造船技術書なども使って
造船理論や海防論を共に学び、教わりました。
こうして小五郎の中島家での造船修業の生活が始まります。

しかし、桂はあくまでも弟子としての生活を送ろうと、造船のことを学ぶ時はもちろんのこと
日常生活においても貫こうとする。
そこで慢性のぜんそくを患っていた三郎助は、数日おきに必要となる
薬を取りに行く使いを頼んでいます。

しかし、三郎助の態度は弟子としてというよりは、近代的な造船を志す仲間として接しており
自分がいる時には、必ず桂を母屋に呼んで共に食事をとり
自身が不在で1人で食事をする際には、給仕をつけ世話をさせました。

こうした態度に、中島家の使用人は不満をもち
「なぜ押し掛けの居候に、こんな丁重な態度で接するのか」と問いかけると、三郎助は笑いながら
「この居候はただの人ではない。やがて私も彼の屋敷で給仕をするような時がくるであろう」
と答えたと言う。
やがて、長州を背負って立つ小五郎の資質を見抜いていたのでしょう・・・
この小五郎の中島家寄宿・造船修業は、この年の7月に設立された「長崎海軍伝習所」に
三郎助が選ばれて赴く、秋まで続きました。

月日は流れ、箱館戦争で榎本軍に投じた三郎助は、函館・千代ヶ岱台場で二人の息子
旧浦賀奉行所メンバーと共に、壮絶な戦死を遂げます。
小五郎こと木戸孝允は涙を流し
三郎助に残された妻女に援助を差し伸べます(長男・次男の下、さらに弟妹がいた)
こんな話が桂と浦賀にはあったんですね!


このあたりの史料(中島三郎助や浦賀の造船史料)は
「浦賀コミュニティセンター(浦賀郷土資料館)」(地図・青印)の2階に展示がされています
(無料・1階はプールの受付でした)

(地図・緑印は徳田屋跡で渡しの東浦賀船着場です)

浦賀奉行所跡(地図・赤印)
f0010195_03501.jpg

当時の堀と石垣が残っています(今は某社の社宅)

中島邸・推定場所(場所は浦賀郷土資料館にある古地図で確認してください)
f0010195_0362573.jpg

奉行所よりも海側に役宅がありました。
ちなみに愛宕山南麓にあたるこのあたりは、曲がり道の標識等はまったくありませんので
地図を注意深く見て散策してください(実際に迷いました 汗)
それと海側の道にバスが通っていて、久里浜のペリー公園近くを経由する久里浜駅行きの
バス路線があるのですが、昼間は1時間に一本でした(泣)
(しょうがないのでタクシーを頼みました 苦笑)

浦賀の中島さん話、あと1回。その後は久里浜へ・・・

その1その2その3その4その5その6
 
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Commented by ノブ at 2010-11-11 17:51 x
本当に、良い話ですね。時勢が良く分かっていた中島三郎助なのですが、恩顧のある幕府に殉ずる姿は涙が出てきますね。倒幕派と言われる人達も、多くは当時の幕府の素晴らしい武士達に影響も受けていた。
私なども、会社において買収され、買収側に付けば、先は安泰と分かっていたが、出来ずに辞めたのですが。買収者之やり方の方が正しいし、過去の経営は間違っていたのは良く分かっていて、それに抵抗したが、買収者と同じ方向でも、だめなものですね。感情が許さない。
当時の中島三郎助も多分、そうだったのでしょう。
これは、理屈では無い世界でもある。
でも、桂との話は本当に良いですね。中島は同じ名字で特に感じますよ。
Commented by enokama at 2010-11-13 01:19
>ノブさん
この話は当時の新しい世界の動きに対する危機感を持ちながらも
貪欲に知識を得ようとする心意気と
それに答えようとする師、昔の良き日本にあっただろう
いい話ですね!
浦賀に来た外国人たちは、日本人の好奇心旺盛さと明るさ
その対応力に、みな関心して帰っています!

「この国はのうなってしまう」
「皆が明るく暮らしていける世の中にする」で片付けてしまう
某脚本家は、こんな幕末の動きも知らんのでしょうね…


by enokama | 2010-10-31 22:57 | 幕府東国諸藩 | Comments(2)