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エノカマの旅の途中

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浦賀へ~異国船の相次ぐ来航と吉田松陰

浦賀湾

浦賀湾を挟んで東側が「東浦賀」、西側が「西浦賀」と一般的に言われています。
地図には「叶神社」が、東にも西にもあるのがわかりますね(→HP
どちらにもお参りすると、恋が叶うって言われてるそうですよ!

西叶神社
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東叶神社
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勝海舟ゆかり(東叶神社)
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あの太平洋を横断した咸臨丸の出航直前(一旦、浦賀に入っていた)に
無事を祈ってこの地で断食したと言い伝えられる・・・



天保8年(1837)6月、アメリカ船籍の商船・モリソン号が浦賀沖に現れた。
アメリカが保護した漂流民の引渡しと、日本での通商を求めるのが目的であった。
当時の日本は鎖国が国是で「異国船打払令」(→きっかけとなった大津浜事件)に基づき、戦意のないモリソン号を砲撃し、打ち払った。
「モリソン号事件」は諸外国に大きな衝撃を与え、幕府も方針の見直しを迫られることとなる。

天保13年(1842)国際情勢に鑑みた幕府は、むやみに有無を言わせぬ「打払令」は改められて
現実的な「薪水給与令」が出され、航海術の進歩により、はるばる太平洋を渡ってくる商船・捕鯨船らの保護が図られた。
背後に軍艦来航の脅威も認識されるようになったこともあるが、やがて現実のものとなる。

弘化3年(1846)アメリカ海軍のコロンバス号とビンセンス号と言う巨大な軍艦が浦賀の南・野比沖に現れた。
今回は正式な開国通商を求めての来航だった。
この時は数多くの小舟を繰り出して、この巨大な異国船をびっしり囲み、その数600に上ったと言う。
この時に最前線で対応にあたったのが、浦賀与力で三郎助の父・清司で 幕府は元来の国是として「開国通商の拒否」の方針を断固として伝え
この時のビットル提督はあっけなく了承し、アメリカ軍艦を退去させた。

この対応で中島清司の名声は広がったが、異国船の来航は日常的に近いものとなり
いつまでも「拒否」の態度ではいられないし、実際に大艦を見た現状の海防策の不備を多くの者が痛感した。
そこで、中島清司は意見書をまとめた。
「無二念打払令は異国船に対して、名分のない戦争を仕掛けることに等しい。打払えば謂われなく打ち払われた異国船・数百艘のさらなる来航・武力行使を招く」
「台場の砲を増やすことは意味なく、むしろ堅牢な軍船を数艘用意して侵入した船に追い撃ちをかける形で江戸湾警備にあたらせる方が有用であろう。台場はその場に上陸する相手を防ぐだけの機能しか持ち得ない」
この上書は海防に関心がある者の必読書となり、吉田松陰も読んだと言い実際に松陰は全国各地を回って「海防の問題点・課題」を痛感したと言う。

徳田屋跡
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その松陰と盟友・熊本の宮部鼎蔵は、嘉永4年(1851)6月に中島清司を訪れ三郎助とも論議した。
この時、相模・安房の海岸線や幕府建造の台場に視察に行き
次に北方に目を向けた二人は、この年暮れからの極寒期に東北遊歴旅行を決行した。
またペリー来航の嘉永6年(1853)には、佐久間象山とこの地で論議している。
その時、宿泊した旅館で、残念ながら関東大震災で倒壊してしまったとのことです・・・
のちに桂小五郎も「造船の大家」となっていた三郎助を訪ねて、しばらく浦賀の役宅に逗留しています。
この話はのちほど・・・

浦賀の渡し
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地図の通り浦賀は奥深い湾になっているので
東浦賀と西浦賀の間は、古来から渡し船が使われ現在も重要な交通機関となっています。
西叶神社から徳田屋跡の付近まで運行されています(→ここ
12時から13時までは昼休みで動いていないとのことでしたが
この日は休日でもあって、休みなしで動いていたようです!
続きます→その1その2その3その4その5その6
 
by enokama | 2010-10-30 23:32 | 神奈川県の史跡 | Comments(0)