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エノカマの旅の途中

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浦賀へ~中島三郎助と造船

駅を降りると、すぐに大きな工場らしきものが見えます。
浦賀へ~中島三郎助と造船_f0010195_0344171.jpg

こちらは工場を囲んだフェンスに書かれた絵です!
明治29年(1896)に操業を開始した浦賀船渠所(通称・浦賀ドック)の場所です。
以来、約1世紀にわたって護衛艦・自衛艦、青函連絡船、大型タンカーなど1000艘に上る
船を作り続けてきましたが、日本の造船不況により2003年に閉鎖となってしまいました。

ちょうど、祭りで中に入れた。
浦賀へ~中島三郎助と造船_f0010195_0461089.jpg

工場内にはクレーンも残され、煉瓦積みの明治時代のドライドックも残されています。
この広大な跡地の再利用については、いろいろ議論がされているようです…
でも「ものつくり日本」の厳しい現実を見るようで少し寂しいですね。

さて、なぜこの地で造船が行われるようになったのか?
ここに中島三郎助が大きく関わっていたのです!



享保7年(1720)伊豆下田から移された格好で「浦賀奉行所」が置かれます。
江戸湾の入り口で港が深くて広く、選ばれたこの地で
江戸に入る船の積荷改めや沿岸警備と言った、海の関所としての機能を持っていました。

そして幕末になるとヨーロッパで産業革命がおき、大船で艦隊を組んで海に乗り出す時代となり
ロシアの南下や、はるばる太平洋を渡ってアメリカ船も、日本沿岸に接近するようになります!
もう鎖国として自国のみでの自給自足の暮らしは、世界の流れに組み込まれる新しい世の中に
巻き込まれるようになったのです。
「浦賀奉行所」は異国船への応対と言った、まだ未知で困難な責務も負うことになりましたが
高圧な相手にも屈することなく、また武士道を持って彼らの航海の援助するなど
堂々と立ち回ったのです。。。

そして彼らは、その数々の体験の中で「日本も西洋式の大船を作らねば」と幕府に意見書を出し
「大船建造禁止令」を解かせると共に、この地で本格的な洋式船の建造を命じられます。
そして嘉永7年(1854)5月。我が国初の洋式船「鳳凰丸」が建造されたのです…
その中心が中島三郎助でした。
明治になって、あの小栗忠順が残した横須賀製鉄所(造船所)が造船の主力となり
浦賀の造船は一旦、廃れました。


月日は流れ明治24年(1891)三郎助の23回忌。
港を見下ろす愛宕山に三郎助の顕彰碑が立てられます!
浦賀へ~中島三郎助と造船_f0010195_1242747.jpg

字はかなり読みにくくなってるのですが
碑文はおなじみ、箱館戦争時の総裁・榎本武揚。
ここにかつての幕府海軍の同僚・荒井郁之助も参列しており
「中島のために造船所を作ろう」と言ったことが契機となって
浦賀に造船所が作られたのです!

愛宕山からの浦賀湾
浦賀へ~中島三郎助と造船_f0010195_1334842.jpg

ちなみにここは横須賀最古の公園として整備されたそうですが
残念ながら、手入れが行き届かず登山道も草ぼうぼうになって
写真のように視界良好とも言い切れない景色でした…
上り口もわかりにくいので、時間がない方は他の散策に回した方がいいかもしれません。

まだまだ浦賀はエピソードがありますので
続けます→その1その2その3その4その5その6
 
by enokama | 2010-10-18 23:31 | 神奈川県の史跡 | Comments(0)