浦賀へ~中島三郎助と造船
こちらは工場を囲んだフェンスに書かれた絵です!
明治29年(1896)に操業を開始した浦賀船渠所(通称・浦賀ドック)の場所です。
以来、約1世紀にわたって護衛艦・自衛艦、青函連絡船、大型タンカーなど1000艘に上る
船を作り続けてきましたが、日本の造船不況により2003年に閉鎖となってしまいました。
ちょうど、祭りで中に入れた。
工場内にはクレーンも残され、煉瓦積みの明治時代のドライドックも残されています。
この広大な跡地の再利用については、いろいろ議論がされているようです…
でも「ものつくり日本」の厳しい現実を見るようで少し寂しいですね。
さて、なぜこの地で造船が行われるようになったのか?
ここに中島三郎助が大きく関わっていたのです!
享保7年(1720)伊豆下田から移された格好で「浦賀奉行所」が置かれます。
江戸湾の入り口で港が深くて広く、選ばれたこの地で
江戸に入る船の積荷改めや沿岸警備と言った、海の関所としての機能を持っていました。
そして幕末になるとヨーロッパで産業革命がおき、大船で艦隊を組んで海に乗り出す時代となり
ロシアの南下や、はるばる太平洋を渡ってアメリカ船も、日本沿岸に接近するようになります!
もう鎖国として自国のみでの自給自足の暮らしは、世界の流れに組み込まれる新しい世の中に
巻き込まれるようになったのです。
「浦賀奉行所」は異国船への応対と言った、まだ未知で困難な責務も負うことになりましたが
高圧な相手にも屈することなく、また武士道を持って彼らの航海の援助するなど
堂々と立ち回ったのです。。。
そして彼らは、その数々の体験の中で「日本も西洋式の大船を作らねば」と幕府に意見書を出し
「大船建造禁止令」を解かせると共に、この地で本格的な洋式船の建造を命じられます。
そして嘉永7年(1854)5月。我が国初の洋式船「鳳凰丸」が建造されたのです…
その中心が中島三郎助でした。
明治になって、あの小栗忠順が残した横須賀製鉄所(造船所)が造船の主力となり
浦賀の造船は一旦、廃れました。
月日は流れ明治24年(1891)三郎助の23回忌。
港を見下ろす愛宕山に三郎助の顕彰碑が立てられます!
字はかなり読みにくくなってるのですが
碑文はおなじみ、箱館戦争時の総裁・榎本武揚。
ここにかつての幕府海軍の同僚・荒井郁之助も参列しており
「中島のために造船所を作ろう」と言ったことが契機となって
浦賀に造船所が作られたのです!
愛宕山からの浦賀湾
ちなみにここは横須賀最古の公園として整備されたそうですが
残念ながら、手入れが行き届かず登山道も草ぼうぼうになって
写真のように視界良好とも言い切れない景色でした…
上り口もわかりにくいので、時間がない方は他の散策に回した方がいいかもしれません。
まだまだ浦賀はエピソードがありますので
続けます→その1・その2・その3・その4・その5・その6