梼原・脱藩の道を歩く~その3
梼原には茶堂という茅葺き・板敷きのお堂があります
古くからあるもので、木像や石像か祀られて「信仰と心情と社交の場」となってきました。
道を行きかう人たちの安らぎの場所にも、なっていたでしょうね!
今は村に13ヶ所残されているそうです。
次に「六志士の墓」に行きます。
各地で散った幕末志士たちの分霊を祀った墓で
昭和10年に立てられました!
那須父子(俊平は禁門の変で戦死・信吾は天誅組で戦死)と天誅組総裁で
梼原で大庄屋も勤めた吉村虎太郎。そしてこの地ゆかりの3名の墓があります。
前田繁馬は天誅組で戦死。
中平龍之助は勤王党弾圧の始まった文久3年11月に田所壮輔(三田尻招賢閣で割腹死)らと脱藩後
長州で土佐脱藩浪士の多くがいた忠勇隊に入り、翌年7月に禁門の変で戦死。
掛橋和泉は梼原で神職を勤め、裕福だったことから多くの脱藩者に資金援助や手助けをした。
しかし、その行為が義母(養子だった)に知られそうになり(すでに借財もするようになっていた)
累を及ぼすことを避けるため、銃で自害する。
その旧掛橋和泉邸は、その吉村虎太郎が勤めた庄屋屋敷跡に移築されています。
中二階の小部屋
他に奥の間にある床にも脱出口があって、脱藩者たちを匿っていたそうです!
梼原の市街地(まあ集落規模ですが)には晩年の武市半平太未亡人・冨も住んでいました。
最後に「維新の門」です!
まず、掛橋和泉
4名の梼原ゆかりの志士で那須信吾・吉村・前田・中平
先導する那須俊平と坂本龍馬・沢村惣之丞。
迫力ある銅像でした!
この日は梼原に泊まり(太郎川)温泉も気持ちよかったです!
次の日は丹中山・龍馬生誕地・桂浜・武市半平太生家と墓所(→ここ)などを回りました。
僕も最近よく高知に行ってるんで、また過去記事(土佐藩カテゴリ)をご覧ください。。。
丹中山では「平井収二郎の墓」加尾(広末の兄)って書いた手書きの案内表示ができてて
ちょっと笑ってしまいました。
「生まれた町記念館」もたくさんの人でびっくりしました!
今回も楽しかったです。
お世話のなった皆さん、ありがとうございました!