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エノカマの旅の途中

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梅屋敷事件その2~長州と土佐

「遠路航海策」から「尊攘論」に変換した長州であったが
江戸ではその急変に対して「朝廷に阿諛し世間を幻惑するもので口先だけではないか」
との風評が立っていた。
そこで彼らは「朝廷の御意思を実現し、我らこそが尊攘をさけぶことで藩内部の意思統一と
対外的な尊攘論者の信頼を得るためには、具体的な攘夷を起こさなければならない」と
行動を計画した。
そんな中、志道聞多(井上馨)がとっておきの情報を持ってくる。



11月13日、横浜の英国公使(ミニストル)が
彼らの言う週1日の休日「SUNDAY」に横浜近郊の金沢で遊ぶと言う。
「奴を斬ろう」高杉はすぐ話に乗った。
頭には薩摩が「生麦事件」で浴びた喝采が浮かんでいた・・・
資金は100両、聞多が用意した。口八丁手八丁の彼なら、たやすいことだった。

しかし、前日になって久坂が反論する。
「一人だけ斬って何になる。挙藩での行動でないと」
結論はとにかく行動を何らかの形で早く起こすべきと決し
12日晩に神奈川宿・旗亭下田屋に終結することとした。
メンバーらは高杉を中心に品川弥二郎・赤祢武人・山尾庸三らも加わり11名。
ところが、いざ出発となるころ、周りが幕吏で包囲されていることに気づいた。
しかもそんな中、勅使の三条・姉小路の使いが訪ねてきて、両公からの「軽挙を慎め」との書簡を渡される。
はて?と引き続き、善後策を相談していると、今度は藩士の山県半蔵も訪ねてきて
「若殿様がお待ちである」と、長州の別邸であった梅屋敷まで一同赴くこととなった。
ここで世子・毛利定広は「自分は非才だ。だから優れた家来に助けてもらわないと事はならない。
どうか見捨てないで欲しい・・・」切々と彼らを諭し行動を断念させ、この暴走連中の多くは涙にむせんだ。
そんな中、高杉だけは今回の挙について懇々と主張したと伝わる。。。
こうして長州の「寺田屋騒動」は未然にふさがれた。

なぜ計画が漏れたのか?
実はこの計画を久坂は、土佐・武市半平太に事前に話をしていた。
しかし、軽挙として武市は反対の意見を持つ。
三条・姉小路両卿が東下している最中に、こんな事件を起こされると迷惑をかけてしまうし
世論にも悪影響を及ぼしかねない。
そして自身は両卿に正直に話し、止める手立てを依頼し
一方、薩摩の高崎猪太郎にも通報して、各所に予防線を張ってもらった。
当時の高崎は従兄の佐太郎とともに、西郷不在(遠島)当時の薩摩の公武合体論を支える重要人物
であったが、武市には「薩長土の連携」に沿った朝廷主導の国家構想もあり
主義主張が異なる彼らとも交流を持っていたのだ。
そのあたり、久坂の行動の方が短絡的なことがあったのも否めない・・・
その猪太郎は幕府に警戒を求め、政事総裁職の松平春嶽とその盟友・山内容堂にも伝える。
もちろん、両名には勅使との対応で重要なこの時期にとんでもない話である。
容堂から毛利世子に情報は伝わり、直々に殿様の鎮撫となり、完全に彼らの動きは封じこまれたのだ。

一方、この事件にはまだ続きがあり
容堂は梅屋敷にも土佐藩士を派遣し警戒にあたらせていた。
そして、高杉は中止の顛末を彼らにも伝えた所、したたかに酔った周布政之助が現れ
「容堂侯は尊王攘夷をちゃらかしなさる」とやってしまった。
元々、容堂のあいまいに見える尊皇論には信用がおけず、快く思っていない。
また薩摩との会合でも周布は暴言を吐き、あの沈毅と言われた大久保一蔵が一世一代の
「畳まわし」の芸を見せて、なんとか場を納めた話も残っているほどで・・・
この手のエピソードは周布さんにはいくつも残ってます(笑)
もちろん土佐藩士らは激高し、刀に手をかける所、高杉が「失礼した」と
周布を斬るふりをして馬の尻を叩き、酔虎を逃がした。
そして「あとで首にする」と伝え、その場を引き取らせた・・・
しかし、その報告を受けた容堂は「君子はずかしめられれば、臣死す」と戻ってきた藩士を
また直ちに長藩邸に赴かせる、らしいエピソードもあった(笑)
結果、仲裁に松平春嶽が立ち、人格者の来島又兵衛や小南五郎右衛門も奔走し
周布は命を助けられ、帰国させた・・・はずだったが名を「麻田公輔」と変え
引き続き、江戸勤めを続けたのである。
これも長州らしい話です(笑)

坂本龍馬は武市・久坂の会合にいた話や、警備にあたった上士が下士の不始末をなじり
切腹させようとした騒ぎもあって、その中にいたと言う話があるが
脱藩士でもあり、詳しい話は伝わらないようだ・・・


しかし長州の面々は、まだあきらめなかった・・・
攘夷勅使が京に戻った後の12月12日に、あの御殿山で建築中の「英国公使館焼き討ち事件」を起こす。
久坂は翌13日に、山県半蔵と土佐・中岡慎太郎に千住で、何食わぬ顔で合流し水戸へ行き
のちに松代藩の開国論者・佐久間象山を訪ねている(→関連記事

そして、翌年(文久3年)5月。
久坂が主導して朝廷からの「攘夷実行」を、開門海峡で外国船に砲撃し、文字通り実行する長州だったが
一方で(志道改め)井上、伊藤、山尾ら5人は周布の援助を得て、英国に秘密密航留学に出ている。

長州の攘夷、まだまだ奥が深いのです・・・
by enokama | 2010-07-28 01:43 | 長州藩 | Comments(0)