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エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎について、気づいた新事実~変名と宮川助五郎

今、フジテレビ系で「龍馬暗殺」をやっています。
内容はイギリスや薩摩が絡んでいるようなんで、またまた薩摩主導説にするんだろうな・・・
そんで慎太郎は巻き添えもしくは、龍馬暗殺の加担者にされてしまう。
まだ、クソT○SやインチキN○Vと違って、しっかりと手間と金を使えるフジだけに
少しだけ期待したい所ですが・・・
正直、龍馬の英雄伝説にはいい加減、食傷気味なんで(ヒネクレてすいません)
DVDに撮って、飛ばしながら(とりあえず慎太郎写真が出るとこまで)見るとします。。。

今日は新事実と言うか、慎太郎を調べて15年の僕が最近になってわかったことについて
(わかっている人は、すでにお分かりの事かと思いますが・・・)書いてみます。



(慎太郎の変名について)
おそらく「龍馬伝」は、師匠の武市半平太と入れ代わりで出てくるようなので
もう慎太郎自身は脱藩して、長州に身を寄せてるころだと思います。
実は五十人組で、江戸にいたころに「光次」(一般的にはこうじ・・・みつじ説もある)から改めた
「中岡慎太郎」の名は脱藩時に、その身を憚って使うのを止めています。
そして使い出した名前が「石川清之助」(誠之助・清之介とする書簡もある) 
この名を使い出してからが、慎太郎の志士活動の始まりとなりました・・・
だから長州人との手紙のやりとりは「石川」宛に来て、送る時は「石川迂山」(号)「道正」(名)などとなり
「中岡慎太郎」名義で送られた手紙は、脱藩前のわずか二通しか残っていません。

そして長州の桂、薩摩の西郷を始めとする関連の記録では、あくまで「石川」であり「中岡」ではないのです。
(例えば、暗殺の際に残っている中村半次郎(桐野利秋)の記録では「坂本・石川」と書かれている)
また僕も最近、土佐の谷や後藤・板垣らの記録を見てるんですが、やはり中岡じゃなくって石川
と書かれているものが多いんです(「石川は中岡のこと」と書かれている)
だから脱藩後、土佐浪人を除いては本名が「中岡慎太郎」であることは、よっぽどの仲になって
打ち明けない限り、知らない者が多かったのではないのだろうか。
それは脱藩後になってから、石川こと中岡慎太郎に初めて接した土佐藩首脳らにも言えるかもしれず
海陸両援隊ができ、脱藩罪を解かれた以後の手紙も「清之助」と一貫して書かれている。
(ただし、そんな脱藩罪が許された覚だけは「北川郷大庄屋倅 中岡慎太郎」となっている)
だから石川って誰なんだってことが、維新後忘れ去られた一因かもしれないんです。

坂本龍馬がどれぐらいの割合で「才谷梅太郎」を使っていたのかは知らないけども
有名な「薩長同盟」の裏書にもあるし、脱藩後にも坂本と書いた記録はいくつもある。
徹底して使わなかったのだろうが、中岡慎太郎の場合は完全に志士「石川清之助」になっていたのだ。
また違った変名もあって、大宰府の五卿随従士としての名前が「大山彦太郎」
陸援隊隊長としては「横山勘蔵」で、まあこちらは隊の性格(当然、新撰組や一会桑から目は付けられる)
から言ってさらなる変名は当然、必要不可欠な事です。

他に陸援隊の田中顕助(光顕)は脱藩してからの名で、旧名は浜田辰弥。
大橋慎三は旧名・橋本鉄猪でした。
彼らは維新後、引き続き使っています。
慎太郎がもし彼ら同様、維新後にも生きていたとしたなら「志士・石川清之助」という名の名声を持って
中岡慎太郎と言う名前ではなかったかもしれないですね・・・
また「龍馬伝」に登場の際は、役名は石川清之助(中岡慎太郎)として、一般的には「石川」と呼ばせる方が
リアルに彼の役割が伝わるんじゃないでしょうか。。。


(宮川助五郎の相談?)
よく「近江屋の暗殺」でなぜ慎太郎が龍馬の寓居にいたかの理由で、語られるのが「コイツ」のこと(苦笑)
まあ、お世辞にもお行儀のいい人物ではなかったらしい。
上士でありながら「勤王党」に加盟するぐらいだから、風変わりに違いない。

細かい所は省きますが、宮川をどこで預かると言えばやはり「陸援隊」に落ち着くのは考えられること。
レッキとした藩邸扱いだし、統率の取れた隊に放り込んで矯正するにはもってこいだしね・・・
慎太郎とは五十人組以来の知り合いだし、後は新撰組・会津藩とどう話をするかって問題があったと思うんだ。
それで龍馬に相談に行ったとされるんだが、いったい龍馬が新撰組や会津に対して何ができるって言うの?
ましてや五十人組のころはもう脱藩してたでしょうし、宮川助五郎なんか知らんでしょう。
なんで龍馬にお伺いを立てなならんのだ。。。

ずっと僕はそこが疑問に残っていたんだけど
そう言えば、龍馬のところに行く前に福岡藤次(考弟)に会いに行ったって話があったな。
福岡は海陸両援隊の生みの親だし、藩の陸援隊担当者として出京官の役目もあった。
おそらく福岡から慎太郎へ最初に宮川の打診があって、陸援隊サイドで話し合いをした結果を持って
福岡に返答に行ったんじゃないだろうか。そこからは藩レベルの交渉になってくるからね・・・
たぶん「宮川の話を福岡としてくる」と言って、白川・陸援隊屯所を出発したから、この話が残ってたんだろうけど
福岡が留守だったと言う時点で、この話は終わったことだと思う。
そして、前の慎太郎の寓居だった菊屋に行ったら、龍馬が近江屋で篭ってると聞いた。
まあ遠い白川から、街中まできて何もなしじゃもったいないし、龍馬と会談してる間に福岡も戻ってくる
だろうと思い行った・・・そこで惨劇にあった。

だから宮川の話を龍馬にしに行ったというのは、たぶん平尾道雄さんの記述をみんな取ってるんだろうけど
おそらく言葉足らずなんだな。
でもこう書いたら慎太郎自身の警戒が無さすぎって言うのも気になってくることです・・・
by enokama | 2010-05-08 22:51 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)