大阪会議について
今回は関東方面から、大阪~京都の幕末史跡めぐりに泊りがけで
こられていた方とも合流して、ほんと楽しかったです!
結局、心斎橋の3次会(次の日、どこで飲んでたか記憶飛んでた人もいましたが 笑)まで
9時間ほど、飲んでしゃべってました(まあ一年半前ぐらいまではしょっちゅうだったんです・・・笑)
そして本町の定宿で泊まって(まあ仮眠程度の時間になったんですけど 笑)
日曜の午前中は、関東方面の方と適塾周辺を散策してきました。
いろいろと教えていただく事も多かったです。
また、これからもよろしくお願いしますね!
淀屋橋で皆さんと分かれた後、天満橋のジュンク堂(歴史書が多いんです!)に行こう
と思って土佐堀通(地下に京阪が走っている)歩いてたらこんなレリーフがあったんです。。。
花外楼(かがいろう)
明治8年(1875年)1月にいわゆる「大阪会議」が行われた場所で
明治6年に西郷・江藤・板垣らが「征韓論」と称して野に下った政変があったが
それに矛盾した格好で翌年、大久保利通は台湾出兵を強行。
「出兵するなら再び江藤の首をつないで謝れ」と激怒した木戸孝允も下野してしまい
政権の弱体化を心配した伊藤博文と、当時は度重なる不祥事で官職を追われ実業家に
専念していた井上馨(大阪のドンで政商と言われた薩摩出身の五代友厚も一枚噛んでいた)が
大久保と相談して、再び各勢力を結集して、政権を立て直そうとした会議をこちらで開催した。
幕末には京へ上る三十石船の着く八軒屋浜港も近く「加賀伊」と言う名の割烹料理屋で
長州藩士の密談の場ともなったとされ、山口や高知の地元での会合をさけ、大阪で秘密裏に開催された。
レリーフにあるように上段が大久保に板垣・木戸。下段が聞多俊輔の仲介コンビ。
自由民権を模索していた板垣、三権分立を主張する木戸の意見を取り入れ、ゆくゆくは立憲・議会開設の
方針を確認し、2名の参議復帰も決まった。
そして会議の成功を祝って、木戸は改めて「加賀伊」改め「花外楼」の名を送ったのである。
しかし、その後も相変わらず大久保・伊藤らの専横政権となり、民権派も弾圧の対象となって板垣は去り
木戸も西南戦争のさなか亡くなってしまう。。。
大久保亡き後、伊藤・井上は薩長閥と微妙なバランスを取りながら、事あるごとに板垣・後藤の土佐民権派
を取り込んだり、一方の実力者である大隈重信とも離合集散を繰り返した。
しかし、その野党勢力の大隈・板垣が組んでせっかく政権を取ったとしても、長続きしなかったのだ。
その後、少しずつでも民主化や議会の力が強くなり時代が進んでも、力で押さえつける条例や法も
必ず存在して、権力者達は反対者を弾圧する口実を常に持っていたのだ。
そんな歴史の一コマの場所です!
初めて書き込ませて頂きます。
16日の新年会に参加させて頂いた親子連れです。
当日の新年会は開始早々からの記憶が曖昧で、翌日に娘が持っていた名刺にエノカマさんのがあったのでブログに御邪魔しました。
(実は名刺を頂いた記憶がまるで無いのです。失礼致しました)
実に充実したブログに感心致しました。
今後もちょくちょく寄らせて頂きます。
「花外楼」には何度か石碑を見せてもらった事がありましたが、レリーフが出来ているのは知りませんでした。
「加賀伊」の主人は加賀の伊介と言う二つ名を持っていたそうで、なんだか侠客のような感じがしますね。
ほんでこのレリーフ僕も去年の夏に発見してmixiのフォトにもアップしました。
花外楼は大阪会議でよく知っていたんでいつか食事をしたいと思ってるんですがなかなか敷居が高そうでいつも前を通るだけです。
場末のブログにお越しいただき、ありがとうございます!
土曜日は、ほんと楽しかったですね。。。
このブログの当初は「競馬予想」をメインにするつもりだったんですが
今や、マニアックな歴史ブログと化しております(笑)
一応、あまり偏るのもどうかなと思って、幅広くいろんな方向から
記事にしてるつもりなんですが、まだまだ研究不足で調べたいことも山ほどあります。
またご意見、ご教授いただけたらうれしいです!
これからもよろしくお願いします。。。
土曜日はお疲れ様でした!
楽しかったです。。。
あのレリーフは、ほんとインパクトありますね。
でも一般人から見たら、お札になった人物+木戸・大久保はわかる
だろうけど、意外に「つぶれ饅頭」井上ってわからないかもしれませんね!
「花外楼」さんは、そんな歴史の一コマをしっかり今も伝えてくれる
姿勢は好感持てます!
ほんと一度は行ってみたいです。