中岡慎太郎関連の京都の史跡(中沼了三塾と梅田雲浜邸跡)
追加して、まだ紹介していない史跡を紹介します。
(関連記事→こちら)
中沼了三先生講書の所碑(烏丸夷川下ル東側)
烏丸御池の交差点東側、烏丸通を300mほど上がった所にあります(京都新聞社の南側にあたる)
ちなみに隠岐は後醍醐天皇が流された話もあるように、尊王の志が元来より強い地でもあって
文化十三年(1816)に生まれた中沼了三もその影響を大いに受けたのであろう。
中岡慎太郎とのかかわりは
石川清之助こと中岡慎太郎が古高俊太郎(池田屋事件の発端になったとされる志士)に宛てた手紙が残されている。
文久三年(1863)秋の脱藩後に長州に身を寄せた慎太郎は
坂本龍馬の場合は京にいる間、薩摩藩邸に入っていたこともあり、ここでも二人は対照的だ。
昨夜は御無礼仕候。然れば御話の大島三右衛門事、概に着京の趣承り申候に付、僕より中沼の
方探索仕るべくやと存奉り候へども未知人に付・・・急に右探索成下されまじくや・・・
このころ久坂玄瑞・高杉晋作と行動を共にすることもあり、特に気の合った高杉とは
上記の手紙は三月に書かれていたもので、大島こと西郷隆盛の上洛を聞き接触を図るべく
(先に寺田屋事件などで勤王同志を圧迫したことから、公武合体を進める薩摩藩の評判は落ちてきていた。
そこで二度目の遠島から帰還した西郷らが勤王の先駆者としての態度を明確にすべく、大兵を率いて上洛するとの風聞があった)
しかし、古高からの返書は要領を得ず自ら、阿州・西山頼作と偽名を使って入門を頼むが
すぐに土佐人とばれ、恐縮して入門を許されている。
(動機が不純でも?許してくれたんですね~)
この時は西郷との対面は叶わなかったが、薩摩の情報を長州藩邸に知らせる一方
自身の薩摩人との人脈が広がったのだ。
まだまだ駆け出しの志士のころの試行錯誤の話です。。。
近くの烏丸御池交差点には梅田雲浜邸跡の碑