人気ブログランキング | 話題のタグを見る

エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

中岡慎太郎関連の京都の史跡(中沼了三塾と梅田雲浜邸跡)

中岡慎太郎の京都の史跡めぐりの記事を書いたので
追加して、まだ紹介していない史跡を紹介します。
(関連記事→こちら

中沼了三先生講書の所碑(烏丸夷川下ル東側)
中岡慎太郎関連の京都の史跡(中沼了三塾と梅田雲浜邸跡)_f0010195_23316.jpg

烏丸御池の交差点東側、烏丸通を300mほど上がった所にあります(京都新聞社の南側にあたる)
中岡慎太郎関連の京都の史跡(中沼了三塾と梅田雲浜邸跡)_f0010195_233976.jpg
中岡慎太郎関連の京都の史跡(中沼了三塾と梅田雲浜邸跡)_f0010195_24243.jpg
出身地・隠岐の人が立てたんですね~
ちなみに隠岐は後醍醐天皇が流された話もあるように、尊王の志が元来より強い地でもあって
文化十三年(1816)に生まれた中沼了三もその影響を大いに受けたのであろう。
二十歳となった天保六年(1835)に京都に出て、山崎闇斎の系譜である儒学者鈴木遺音の弟子となった。
同門に越前藩の鈴木主悦・橋本佐内・由利公正の師である吉田東篁がいた。
遺音の死後の天保十四年(1843)了三は烏丸竹屋町下ルのこの地に学舎を設けた。
孝明天皇の侍講となり、弘化三年(1864)には御所に開かれた学習院の講師にもなっている。




中岡慎太郎とのかかわりは
石川清之助こと中岡慎太郎が古高俊太郎(池田屋事件の発端になったとされる志士)に宛てた手紙が残されている。
文久三年(1863)秋の脱藩後に長州に身を寄せた慎太郎は
明けて元治元年(1864)には京都へ潜入、長州藩邸を根城に探索活動に入る。
坂本龍馬の場合は京にいる間、薩摩藩邸に入っていたこともあり、ここでも二人は対照的だ。

昨夜は御無礼仕候。然れば御話の大島三右衛門事、概に着京の趣承り申候に付、僕より中沼の
方探索仕るべくやと存奉り候へども未知人に付・・・急に右探索成下されまじくや・・・

このころ久坂玄瑞・高杉晋作と行動を共にすることもあり、特に気の合った高杉とは
自藩の尊攘派を押さえて公武合体策を進めていた薩摩藩父・島津久光の暗殺計画を立て、付け狙ったのもこのころである。
上記の手紙は三月に書かれていたもので、大島こと西郷隆盛の上洛を聞き接触を図るべく
(先に寺田屋事件などで勤王同志を圧迫したことから、公武合体を進める薩摩藩の評判は落ちてきていた。
そこで二度目の遠島から帰還した西郷らが勤王の先駆者としての態度を明確にすべく、大兵を率いて上洛するとの風聞があった)
そんな中で実弟の西郷従道や中村半次郎(桐野利秋)ら薩摩人が多く通っていた中沼塾の調査を依頼した内容だ。
他の門下生は薩摩藩では川村純義、鈴木武五郎、肥後藩の松田重助がいた。
了三は尊王の大義を説き、実際に行動を起こすことを求めたという。
しかし、古高からの返書は要領を得ず自ら、阿州・西山頼作と偽名を使って入門を頼むが
すぐに土佐人とばれ、恐縮して入門を許されている。
(動機が不純でも?許してくれたんですね~)
この時は西郷との対面は叶わなかったが、薩摩の情報を長州藩邸に知らせる一方
自身の薩摩人との人脈が広がったのだ。
まだまだ駆け出しの志士のころの試行錯誤の話です。。。

また勤王の聖地と言うべき十津川村にも足跡が残されて(→ここ
元治元年四月に朝廷の命を受け、長男清蔵を伴って十津川に入り
文武館の開館に立ち会い、その後も十津川の人たちは了三の指導を仰いでいる。
安政四年(1857)からは仁和寺宮の講師を務め
慶応四年(1868)鳥羽伏見の戦いでは軍事総裁となった仁和寺宮の参謀となり人望を集め、功績を残した。
また幕末には徳川譜代・松江藩の支配を脱し隠岐は自治を行っていたこともあり(→ここここ
その精神的支柱が中沼了三でもあった。

明治になって、明治天皇の侍講となった了三は東京に移ったが
従来の儒学ではもう古いと取られたためか、三条実美と言った公卿出身高官と折り合いが悪く対立が起き
明治三年末で辞し、その上清蔵の関与も疑われた新政府転覆の動き「二卿事件」で江戸の鹿児島藩邸にお預けの身となり
一月ほどで許されるも東京を去って、京都へと戻っている(→つづく


近くの烏丸御池交差点には梅田雲浜邸跡の碑
中岡慎太郎関連の京都の史跡(中沼了三塾と梅田雲浜邸跡)_f0010195_2553785.jpg

中岡慎太郎関連の京都の史跡(中沼了三塾と梅田雲浜邸跡)_f0010195_2555739.jpg
こちらはかなり古い建立です。

by enokama | 2009-11-25 23:49 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)